平成的最終日

2019年04月30日 平成最後の日に思い出すこと!



「健康的な生活を続けようと決意している次第です」

いよいよ今日で「平成」が最終日ですね。
今日に際して、何か書き残しておこうと考えました。今は何も書くべきことが見つからずキーボードを前にして、漠然とこの「平成」の時代を思い浮かべています。私はどう生きてきたのだろう?とね。

「平成」が始まる直前、バブル景気に湧いていた昭和末期は世間が浮かれていました。そして天皇の体調が思わしくないと報道が始まり「下血」と言う言葉が何度も聞かれました。そんな昭和63年末に私達は7年間続けていた社内バンド「 The Sizzel 」 を解散しました。そしてその直後の正月休みに、社員旅行で家族揃ってハワイ旅行へ出かけました。それほどの利益を会社は上げていたのです。

数日後、プールサイドで受け取ったのは「昭和天皇崩御」の号外でした。ホテルのテレビでは一日中皇室特集が流れていましたね。その翌日、私達は帰国の途につきました。その飛行途中であの有名な小渕さんの「平成」の文字が掲げられました。つまり、私達は太平洋上にいたので「平成」が発表された瞬間を知らなかったのです。成田に到着してから初めて「平成」になったのだと知ったのです。

平成元年は、移動の年でもありました。9月末に、11年間暮らしていた東京都江東区東陽から神奈川県川崎市高津区へ引っ越しました。大きなマンションに買い替えたためです。バブル景気もあり、東陽町のマンションは思っていたよりかなり高額で売れました。その分、新しく買ったマンションも高かったのですがね。

バブル景気は、仕事に追われる日々でもありました。自宅に帰ることは毎日深夜、土日も接待ゴルフなどで振回され海外ロケも頻繁でした。つまり、家族との接点が極端に少ない時代でもあったのです。しかしそれも「平成」に入った直後あっけなく弾け飛んでしまいました。仕事は激変し、仕事の単価が安くなり、海外ロケも極端に少なくなりました。もちろん使える予算も激変です。

平成4年。私が間もなく40歳というとき、父が他界しました。その年、CMプロデューサーからデジタル系プロデューサーへと社内転身。5年間続けた後、まだまだ業界はデジタル化について来れず、デジタルチームは一旦解散。その後管理職となりました。精神的に辛い日々が続き、飲めもしないのに酒量が増え45歳で痛風発症。勢いで酒を止めてしまいました。それ以来お酒は飲んでいません。

平成11年。突如としてギターを集め始めました。最初はジャンクを手に入れリペアして遊んでいましたが、徐々に高額商品へと目が移り始め、日々のヤフオクチェック!次々に購入していきました。最大時で50本ほどのギターを所有しましたが、あれはなんだったんでしょう?若い頃の欲求に対する仕返しみたいな感じでしょうかね?

平成13年。私は子会社へ社長代理として移籍。実態は本社と子会社の掛け持ち役員でした。最終的には常務取締役まで成りましたが平成17年3月にうつ病を発症。辛い日々のまま1年間働き続けついに限界に達し、平成18年2月末に自殺未遂。その二日後、平成18年3月から休職して自宅療養に入りました。13か月間の休職期間に自宅で電子工作を始め、小さなギターアンプを作って遊んでいました。

平成19年4月。再就職しました。私が勤務していた会社が新しい子会社を作ったのでそこの管理職として誘われたのです。うつ病はもう大丈夫だろうと、働き始めることにしました・・・。が出勤初日にそれは甘かったと気づきました。契約があるので、一年は働こうと続けていましたが苦しい日々。

平成19年09月。その後の運命を決める出会いがありました。シカゴ在住の綿貫さんとのはじめての面会。お土産に頂いたオペアンプで遊んでいるうちに、初めて作ったオーバードライブペダルがギタリスト是永巧一氏に評価され、いきなりオーダーが入り始めました。希少なオペアンプだったのでオーダーの度にそれを確保することに必死でした。

平成20年9月になり、Youtube でアメリカのユーザーに私の作ったペダルが紹介されたことで、世界中から突然オーダーの嵐。必死に作りまくりました。まだ生産能力が低かった私は全部を手作業で作り続けることに限界を感じ始めました。平成21年10月、リーマンショックの影響で努めていた会社が赤字経営に。それを期に会社を辞めました。以前からそろそろ辞めたいと考えていたのです。この日から自宅での浪人生活の始まりです。初めてのハローワーク通い。生まれて初めて失業保険を受け取りました。

平成22年9月、突如としてアメリカのギタリストたちとの面会が続きました。まずは LA にて、Paul Jackson Jr. 翌日には「シンプソンズ」でおなじみのアニメ作家 Matt Groening の家で、Henry Kaiser, Howard Leese, Richard Tompson, とも面会しました。Matt Groening は Henry Kaiser の友人だったのです。

平成22年10月には、Howerd Leese が来日。BAD COMPANY としてね。ライブに招待され楽屋で再びお会いすることが出来ました。12月には Henry Kaiser が来日。ライブの手伝いと、丸一日一緒に東京観光して遊びました。

平成23年。運命の年です。東北大震災が起こり、日本中が沈黙の日々。その年の春にアメリカのギター誌に私の作ったペダルが紹介され、その影響でオーダーがかなり増えてきました。そして11月になり、車の事故に巻き込まれ、裁判沙汰に。もちろん相手が悪いんですけど。最終的に裁判には勝ちました。この年の暮れになってもまだまだ鬱から脱却できず。

平成24年。いよいよ加速が始まります。1月には Larry Carlton が禅駆動を使っていると判明。2月には Robben Ford からオーダーが入りました。そしてお二人との日本での面会も叶い、その結果を受けてオーダー量が急激に増加!その時の過労が原因で突発性難聴になり、9日間の入院生活を経験。同時進行で自分の会社を設立しようと準備して「株式会社tanabe.tv」を5月14日付で起こしました。この日私は60歳になりました。

その後は、世界中のギタリストたちに支持されてオーダーが続き、現時点で68か国へ出荷しました。

平生27年5月。突然、英会話の必要性を感じてネットで学べる学校へ入学。来日ギタリストたちと楽屋で話ができないのが悔しかったのです。3か月学んだ後ヒヤリングの特訓もして、9月にカリフォルニア州に住む Henry Kaiser の豪邸に一週間のホームステイをさせてもらいました。もちろん英語の特訓を兼ねていました。とても楽しい日々でした。

平成29年1月。宮崎空港で開催された「宮崎エアポートギターショー」へ招聘されて出展。これも面白い体験でした。持ち出しでの出展でしたが、実家が近いので宿泊費はかからず。往復の航空券代だけが大きな出費でした。故郷に錦を飾る感覚が楽しかったですよ。

平成30年には NAMM へ行ったついでに Henry Kaiser の豪邸で二度目のホームステイを楽しみました。

その後も多くのミュージシャンたちと交流は続き現在に至っています。現在はオーダー数がかなり減っており、まあ、生活するには心もとない状況ですが、すでに年金受給者でもあるし、なんとか生活は成り立っていますよ。

平成31年1月。実家へ帰省した際、突然TV番組に引っ張り出されることに。面白い体験でした。スタッフとの交流は今も続いています。次回の帰省したときには、何らかの番組への出演を期待されていますよ。

平成31年2月。前月の健康診断の結果を聞きに行ったところ「糖尿病です!ひょっとすると膵臓がんの可能性もあります。肝臓の機能障害もあり、すぐに治療しないと危ないです」と脅されすぐに再検査。すると癌はなく、2型糖尿病だと判明、コレステロールの薬だけを飲みつつ、食生活の改善と運動量の増加をやるべきと知り、取り掛かりました。

平成31年4月。運動量を1日一万歩ノルマとし、食事から極力糖質を減らしたところ、改善に向かい、二か月後の本日時点では血糖値も肝機能も平常に戻っています。このまま明日からの「令和」も健康的な生活を続けようと決意している次第です。


本日の結論
平成はギターを買い漁った日々でもあったなあ。

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