読了的慰問団


2012年11月09日 父を想う!



「エア羊羹」

一年ぶりに馬場マコト氏の新刊が著者謹呈で届けられた。白水社刊「従軍歌謡慰問団」この本は、馬場マコト氏の戦時録「戦争と広告」「花森安治の青春」に続く三部作最後の一冊である。本日朝から一気に読み終えた。これから書く内容は書評ではない。私は他人の書いた文章をあれこれ評価するほどの解読力は持っていない。新刊「従軍歌謡慰問団」にまつわる私個人の思いをただ述べるだけだ。

書き始める前に気になっている事があるので一言。
前二作に関してAMAZONに書き込まれた書評に「人はこれほどまでに誤読するものなのか!」と驚いた経緯がある。何がそこまで無理矢理ねじ曲げた解釈をさせるのだろうか?著者が持つ反戦の思いを踏みにじる書評は「こいつら本当に本読みか?」と思えるほど。確かに、一旦出版されてしまった本の解釈は読者に委ねられる。しかし、悪意を持って言葉尻を捉えているとしか思えない書評を書き散らすヤカラの存在は「嫉妬」がやらせているとしか思えない。そこまで言うのなら、人々を納得させられるだけの本を自分で書いて出版してみるとよいだろう。その書評が楽しみであるが。

では、本筋に戻って書き出してみよう。

「戦争と広告」では広告がもたらす戦時下の影響と、それに関わる人々が徐々に戦争に加担して行かざるを得ない恐怖が描かれていた。筆者の広告人としての思いが詰まっていた。「花森安治の青春」は戦争に加担した結果、戦後の日本に新しい文化をもたらした人物の真の姿を描いていた。それらに共通するのは、戦争への嫌悪である。「従軍歌謡慰問団」もまた反戦が根底に流れている。

「従軍歌謡慰問団」の主人公は藤山一郎。平成4年に国民栄誉賞を受賞した音楽人だ。晩年はNHK専属となり、紅白歌合戦で最後に歌われる「蛍の光」の指揮で毎年大晦日にテレビで目にしていたものだ。第二次世界大戦を実体験として知らないが、その残り香がまだ濃く漂っていた時代に生まれた筆者と、読者の間に横たわる溝の幅は読者の年齢によって大きく変わる。前作「花森安治の青春」について述べたときにも書いたのだが、本作も読者の年齢をえらぶようだ。藤山一郎を知る世代がキーワードか。私自身は、ギリギリその溝を飛び越える事が出来たようだ。

私は「あとがき」を先に読む癖がある。「あとがき」は後から読むべきものか?とも思うが、癖はなかなか消えないものだね。前作「戦争と広告」では「あとがき」が重要な意味を持っていた。本作も同じである。「あとがき」が筆者の想いやこの三部作を書き上げるための原動力がどこにあったのかを表している。そして、筆者のバックグラウンドにある反戦思想の一端を知る事になる。「あとがき」の先読み、お勧めする。

本作は音楽業界創成期と第二次世界大戦に巻き込まれた音楽業界人の記録である。読み始めてすぐに作詞家として西條八十の名前が出てくるが、私個人の縁を書くと、西條八十の孫である西條八兄(やつせ)氏と面識がある。数年前までは当家から車で5分程の場所に居を構えていた関係で何度もご自宅に足を運んだ経緯がある。7年ほど前だろうか、私は「西条八十詩集」を西條八兄氏からいただいた。その年に「年間小説読破100冊」を目標としていたので、目標到達の100冊目は「西条八十詩集」とした。懐かしい記憶だ。

西條八兄氏も音楽業界人である。世界的に有名なエレクトリックギター製作者だ。和田アキラ氏、是永巧一氏等のプロギタリストの愛用者も多い。私は、西條八兄氏からハンダ作業の手ほどきを受けたことがある。それがきっかけで、私自身も音楽業界の片隅で生き永らえることになったのだが。

私は「従軍歌謡慰問団」の内容について深く書くつもりは無い。そこに記された戦時記録は読めば理解出来るからだ。ただ思う事は、音楽がもたらす心の有り様についてだけだ。この本の中で表現されている「作詞」と「作曲」の関係について確かにその通りだと思う。強い言葉で組み上げられた歌が持つ力がその時代を表していると思う。ヒットするにはもちろん歌い手の技術の要素もある。

「従軍歌謡慰問団」では自分が作った歌を聴いて涙するシーンが描かれていたが、私自身について言えばその先にもうひとつ「音質」が関わってくる。私が作るエレクトリックギター用のエフェクター「禅駆動」を使ったコンサートで私は涙した記憶があるからだ。2010年に来日した「BAD COM.」のコンサートに私は招待された。サポートギタリストの Haword Leese が私の作ったエフェクター「禅駆動」を使っていたことで本人から招待された。馬場マコト氏は 「BAD COM.」の大ファンであったため、私は馬場氏も招待してもらったのだが、残念ながら馬場マコト氏はその日、外せない仕事で参加出来なかった。

コンサートが始まり、やがて「禅駆動」のスイッチが入る瞬間が来た。Haword Leese がスイッチを踏んだ瞬間、明らかに「音質」が変化したのを感じた。私が作り出したサウンドと、Haword Leese が紡ぎだす芳醇なサウンドがそこにあった。私はその瞬間、涙した。歌詞でもなく、メロディーでもなくギターが生み出す「音質」が私の涙を誘ったのだ。

「従軍歌謡慰問団」は東南アジア、中国大陸、朝鮮半島、の前線を慰問して回った。地球半周ほどの距離を移動していたようだ。今の時代、地球という単語はそのサイズ感が矮小化してもたらされる。かつて、必死の想いで命がけで慰問団が足を踏み入れたインドネシアやシンガポールにも、私の作ったエフェクターのユーザーが居る。私はそれらの国に足を踏み入れた事は無い。ただ自室の机の前に座ってエフェクターを作り続けているだけだ。だが現在、私の作った「禅駆動」や「弾駆動」はユーザーが47か国にも広がっている。インターネットと平和がもたらした広がりだ。

戦争がもたらしたものは唾棄すべき事が多い。だが戦争が「従軍歌謡慰問団」によると日本における音楽文化の一端を担った事も確かだ。この本には、私が子供の頃聞いた「軍事歌謡」が生まれた経緯が多く語られている。子供の頃不思議だった「なぜ、こんな曲が当時流行っていたのだろう?」との疑問はこの「従軍歌謡慰問団」によって氷解した。「支那の夜」を始めとする「チャイナメロディー」等がそれに当たる。

もうひとつの想いは、父との会話だ。父は戦争を強く否定していた。実家の押し入れには父の召集令状が置いてあった。私自身が若かったせいもあって、父と戦争について多くを語り合う事は無かった。いくつかの悲惨なエピソードだけは語ってくれたのだが・・・。その中でひとつだけご披露しよう。

「従軍歌謡慰問団」の終盤に古関裕而が「羊羹」と「おむすび」を交換するシーンがある。それを読んだとき、父の語った戦時中の話を思い出した。父は大正13年生まれ。もちろん第二次世界大戦の際には出兵し、台湾まで行ったと聞いた。終戦間際になると食料品が無くなり、日々空腹の兵士達は、草むらで蛇を捕まえては腹の足しにしたようだ。

夜になり、空腹を抱えた兵士達が何をやったかというと、元は「菓子職人」だった兵士に微に入り細に入り「羊羹の作り方」を語らせ、全員でそれを聞いたという。空腹ながらも羊羹を食ったつもりになったようだ。古関裕而が本物の「羊羹」と「おむすび」を交換した頃、父は「エア羊羹」を食っていた・・・。切ない話だ。

三部作を読み終えて、またしても父への想いが強くなってしまったようだ。18歳で実家を出た私は、その後ほとんど父と語り合う事はなかった。父とは何者であったか?それを今知るのは母だけだ。だがその母も出兵したときの父の想いは知らない。本人しか知らない事実や反戦の想いを私はほとんど知らない。戦争を実体験として語れる日本人が激減した今、再び、中国や韓国の怪しげなニュースが日々聞こえてくるようになった。

余談だが・・・。

私が学校で教えられた戦時の日本の行動は、本当はどうだったのか?自虐史観で記録されたデータや、ねつ造されたデータで語られる歴史は必要ないし、興味が無い。ここにある韓国人が書いた文章がある。これを今、韓国の若い人々はどう捉えるのか?

http://ameblo.jp/sankeiouen/entry-11331270061.html


本日の結論
戦時の記録を読むのは辛い感情が沸き上がる瞬間もある。だからこそ読むべきである!

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