切番的贈呈物


2009年08月10日 お贈りしたものは!



「祈ってはいません」

変な天気が続いていますね。大雨が降ってきて、今日も朝から湿気が多くて汗だくです。ク−ラーのスイッチを入れても、首の周りから汗がダラダラ流れ出しています。私の体調が変なのでしょうかね?昨夜は久々にかなり長い時間揺れる地震もありましたし・・・。

さてと、1996年3月に開設したこのWEBも、13年半でアクセス回数がようやく0888888に達しました。かねてからのお約束通り、キリ番の記念品をその時々で差し上げているのですが、いつもキリ番を踏んだ方とご連絡を取ってから贈り物を決めています。今回はギター歴8年の大学院生の方だと判明しましたので、それにふさわしいものをと考えて、以下のブツにしました!


先月中頃に作成した「燦駆動ガンダムバージョン」です。著作権の問題で販売するわけにもいかず、私の手元に置いてありましたが、これなら喜んでいただけるだろうとお贈りした次第です。まあ、製作したときからいずれはどなたかに差し上げるつもりでいましたので、これでようやく落ち着き先が決まって一安心です。

既にお受け取りいただいて以下のようなメールが届きました。

こんにちは。
先ほど、無事記念品が届きました。
まさか、このようなものがいただけるとは!
Tanabe.tvで見ていたものが手元にあるというのが
なんだか不思議な感じです。
貴重なものをありがとうございます。
大切に使わせていただきます。

この度は本当にありがとうございました。
田辺様の今後ますますのご活躍をお祈りいたします。

さて、ここでこのメールの中の一つの単語について、日頃考えていることを書いてみます。

「お祈りいたします」という言葉ですが、このメールを送られた方についてどうのこうのということではなく、一般的に「祈り」というものがどういうものなのか?について書いてみましょう。

私が「鬱病」であると知った方から「回復を祈っております」とメールを頂いた経験が何度もあります。海外の有名ギタリストからもそのようなメールが送られてきました。その方は敬虔なクリスチャンです。そこで・・・一般的に「祈っております」と何気なく使っておりますが・・・。

祈ることですべてが実現すると仮定してみましょう。 例えば宝くじを買ったとしましょう。買った人は全員が1等を当てたいと願っています。今回のサマージャンボは1等が48本当たる予定です。そこで、買った宝くじを神棚に上げて拝んだり、なんらかの宗教的行為を加えて「祈り」ます。はい!これで結果はどうなるでしょうか?

宝くじ購入者全員が「祈り」を捧げたところで、最大で48人しか「祈り」は実現しません。ではその48人は祈ったから当選したのでしょうか?次は宝くじ購入者が全員「祈り」をしなかったとしましょう。それでも最大で48人が1等当選です。祈っても祈らなくても結果は同じです。

「祈る」ことは自己暗示であって、他人を動かすものではありませんね。千羽鶴で病気が回復したり、平和が訪れたり、てるてる坊主で晴れになったり、そんなことは起こらないのです。あくまでもそれらの「祈り」は自己満足でしかありません。商売繁盛するようにと、正月に神社へ出かけお祓いを受けるような行為や、交通安全祈願と称してお祓いを受ける行為はまったく私にとって意味が無いことです。

でも「人が他人のために『祈る』行為」そのものを私は否定はしませんよ。それは個人の心情の問題ですからね。私は自分の「鬱病」が完治することを願ってはいますが、祈ってはいません。祈る対象そのものが存在しないと言った方が正しいでしょうが。

実は、もっと長い文章を書いていたのですが、あえてそれをカットいたしました。書いているうちにどんどん宗教論として過激になったものですから。てなことで、本日はこの辺で失礼いたします。


本日の結論
寅さんの名言「俺が芋を食ったら、あんたが屁をするか?」

「独断倉庫」に関しての御意見は「啓示倉庫」へ書き込んで下さいな。



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