修理的連続難
2004年05月07日 又してもお約束はやってきた!
 

この後始末はどうなった?


「単に巡り合わせである」


そういやあ、あの話はどうなったのだろうか?その後日談をお知らせしよう!
本日のネタは一部「宗教」に関与する発言もあるが、宗教に敵対しての発言で無いことは事前に表明しておく。

当家が新車を購入したのは本年2月末の事だった。新車が届いた喜びもつかの間、わずか3日後にフロントガラスに飛び石が原因と思われる大きなヒビが入り、購入後1週間目にしてフロントガラスを交換する事態になった。そして、それから1か月後の4月1日。前方を走っていたバカヤロウの不注意でもらい事故となり、新車はあえなくフロントバンパー交換、ナンバープレート交換、エンブレム交換、さらにボンネットの一部に板金加工及び再塗装の必要が生まれた。まさに、tanabe.tvらしい自虐的展開だと言える!(らしいのか?)

その事故の加害者は保険ではなく自腹で支払うと言い始めたため、修理費の件でしばらくドタバタしていた。やっと支払いが完了して修理工場に車を入れられたのは4月25日。急ぎの作業でなんとかゴールデンウイーク初日の4月28日夕方には修理から上がってきた。これですべて終わったと思っていたのだが・・・。その先にはやはり!皆様の期待通りの「不様な展開」が待っていたのである!うおおお〜〜〜やっぱり!

5月2日夕方、私が宮崎から帰ってきた時、妻は車で羽田まで迎えに来てくれた。駐車場でひさしぶりに見る当家の車は、ナンバープレートも真新しくなり、すっかり新車の雰囲気に戻っていた。だが・・・近付いて良く見ると気になる点があった。ボンネットの塗装面が荒っぽかったのだ。塗装スプレーの粒が荒いというか、平面性があまり良く無い感じだった。陽も傾き薄暗い駐車場だったので、翌日あらためて陽の光のもとで観察してみようと考えていたのだが・・・。

帰宅後、妻はあっさりこう言った。

「修理から上がってきた時、営業からもう一度塗装をやり直しさせて欲しいと言われたの。
  素人の私が観ても凸凹が分かるし、少し砂も噛んでいるようなんだけど・・・」


そうだったのか!私の判断は間違っていなかったというわけだな!じつは、私は塗装面がおかしいと感じた時、工場にクレームを入れる気になっていたのだ。相手が認めているなら話は早い。とっととやり直ししてもらおうじゃないか!だが、そうなると又しても数日間の「代車」生活が始まるのか?新車を買ってたったの2か月半で3回も修理工場に入れるのは・・・なんだかなあ・・・。やはり噂通り、当家の車は呪われた存在なのだろうか?(誰が噂してるんだよ?)

このような状況に陥った時、多くの知人達は気軽に「御祓いを受けた方がいいよ!」と声をかけてくる。だが、あいにく私には「信心」がない。御祓いを受ける気なんぞ全く持ち合わせていない。占いと同じく、御祓いも根拠のない「盲信」としか思っていない私だ。ところで「御祓い」とは何を根拠に行われる行為だろうか?WEBを軽く斜読みしても世界中で様々な御祓いが行われているようだが。

では、そんな御祓いや宗教上のルールを無視するとどうなるのだろうか?実は先頃試してみたばかりなのだ。

先日の墓参の際に、私があえてやった行為がある。私の実家では神道で父の葬儀を行った経緯があり、それ以来命日の神事や墓参りの際には「二礼二拍手一礼」をくり返してきた。では「二礼二拍手一礼」にはどのような意味が在るのか?礼を二回行う必然性がどこにあるのか?拍手を二回行う合理的理由が在るのか?WEBで調べてみた。以下のような文章が見つかったが・・・。

「二礼二拍手一礼」の意味

礼をする、つまり「かがむ」動作は「神[かむ]」、すなわち神産霊神[かみむすびのかみ]の働きであり「立つ」動作は「健[たけ]」「高[たか]」で高御産霊神[たかみむすびのかみ]の働きである。 柏手を打つ時に両手を合わせて右手を少し手前に引くのは左は「火足[ひたり]」であり「陽」であり、「霊[ひ]」である、右は「水極[みぎ]」であり「陰[つき]」であり、「体(身[み])」である事から、両手を合わせるのは「陰」「陽」の結合、調和であり、右手を少し手前に引くのは「陰」が一歩さがる、つまり霊主体従[れいしゅたいじゅう]を意味する。

手を打ち鳴らすのは天地開闢[てんちかいびゃく]の音霊[おとだま]であり、天[あま]の磐戸[いわと]開きである。 祈るときそこに天地が開け、天[あま]の磐戸[いわと]が開き、光明があふれでることを意味する。 拝をするのは身をかがめ畏[かしこ]まることで至上のものに対する畏敬[いけい]の念の表現でもあるが、地に垂直に立つ足と、地に平行に屈した上半身はそれぞれ、縦にのびている「火」の気であり、横に流動する「水」の気である。「火」と「水」の交合した姿すなわち「火水[かみ]」となって親神にまみえる。


ううむ・・・分かったようなわからんような・・・。合理的解説なのだろうか?この解説だと「一礼一拍手」でも成立するように感じるのだが・・・。二回やらなければならない必然はどこに在るのだろうか?そして、良〜く読むとなんだかダジャレの集合体のような気がしないか?日本のおせち料理にありがちな「ダジャレ」による意味付けと同じだね。日本語でしか成立しない世界だ!この意味を完璧に理解し「二礼二拍手一礼」を行っているのはおそらく神主さんくらいしかいないんじゃないかなあ・・・。

今回の墓参では神道で定められたルール「二礼二拍手一礼」を無視し、あえて「合掌一礼」のみで終えてみた。精神的には、私が父に感謝していることにかわりはない。見た目のアクションの違いでなにか私の中で変化するものがあるのだろうか?結果として・・・私にとって何も違いは生まれなかった。当たり前か!それを眺めていた母や弟には「奇異」に映ったかも知れないがね!

これから先、妻が「車の御祓い受けようよ〜!」と言い出したら、それを否定する気は無い。勝手にやっていただいて、きっと私は傍観することになるだろうな。当家で採用した工業製品にトラブルが多いのは、単に巡り合わせであることと、新製品に手を出しがちな私の性格が初期不良を掴みやすくしているものと思われる!



本日の結論
それにしても、初期不良やトラブルが多いよなあ・・・当家では・・・。

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