六弦的私歴史

1999年07月31日 いったい何本のギターが通りすぎたのだ?



これが現在も所有するギブソン・レスポール・カスタムだ!

「次回からマージンを!」


独断倉庫では、今まで何度もギターをネタに取り上げてきた。思い出してみると、かなりのギターが私を通り過ぎていった。私はどのようにギターに関わったのか?それを思い出してみよう。長文になりそうな気配だが、まあ、時間とギターに興味がある方は読んでみるのも一興であろう!ギターに興味のない方はやめておいた方がよろしいぞ!

初めてギターに触れたのは、小学生の頃だった。従兄弟の家でちょっとだけボロンと音を出したのが最初だ。カラーはブラウンサンバースト。今から思えば安いギターだったのだろう。ずいぶんネックが曲がっていたような気がする。

中学生になると、流行り出したのがベンチャーズ。加山雄三も流行ってきた。しかし、そのころの田舎の中学生は貧しかった。ギターなんぞは買えないのである。もうまったく買う気にもなっていないのである。となれば、他の方法論を採り入れるしかあるまい。ウクレレだ!これなら小遣いでなんとかなる。で、何とかしたのであった。だが、そのウクレレも、父の友人が子連れで遊びに来た際にぶっこわされてしまった。それ以来、ウクレレは買ったことがない。

次に貧しい中学生は何をしたのか?またもや悪い癖である。通信販売でギターの自作キットを発見したのだ。これなら何とかなりそうだ!早速購入に走った。届けられたキットはガットギターだった。まっとうなサイズ、だが、妙に板に厚さがある。組立、サンドペーパー掛けを行い、塗装を行った。色はブラック。真っ黒いガットギターなのである。趣味はよくない。だが、その時手元にはその塗料しかなかったのだ。塗料を買うだけの財力が当時の私には残っていなかったってわけだ。

しょせん、その程度のキットである。音は出るにはでたが、チープであり、弾きにくい。すぐにゴミと化してしまった。やはり楽器は自作ではなかなか上手くいかないのだとそこで気づくべきであったが、その過ちはその後もたびたび繰り返されることになる。

やがて高校生となり、世はフォークブームである。野茂のあのフォークではない。フォークソングだ。ピーター・ポール・アンド・マリーをはじめとして、ブラザース・フォー、日本ではマイク・マキが「バラが咲いた」を歌い、森山良子がカレッジ・フォークの女王となるような時代だった。

高校1年の夏休みに、初めてアルバイトをした。20日間で2万円にも満たない程度のわずかなバイト代だったが、その中からビール1ケースを買い、両親にプレゼントした。 残った金でギターを買いに走ったのだ。手に入れたギターはフォークギター。ちょっボディーシェイプが細めであった。メーカーは「マルハ」だった。そんなメーカーは今もあるのか?このギターは4年後、私の不注意により転倒して壊してしまい、あっけなくその一生を終えた。

そのころベンチャーズが使っていた「Mosrite」もあこがれのギターだった。だが、あまりにも高価であった。欲しいと思う前にあきらきっていた私なのだ。

高校を卒業間近にしたころ、近所の同級生が突然やってきて「これやるよ!」とエレキギターを差し出した。今で言うストラトキャスターレプリカモデルだった。白いそのギターは、本人が自衛隊に入るので持っていけないから私にくれるのだと言う。ありがたくいただいた。その後いつの間にかそのギターは消えてしまった。そのいきさつはよく覚えてはいない。

就職し結婚もした1年後、24才の時、突然ギターを弾きたくなった。そして、ギター雑誌を観ているうちに「ギターキット通販」の文字を見つけたのである(おいおい!またかよ〜!)しかも今度は怪しげではない。メーカーが「YAIRI」なのである。これは日本では一流ブランドだ。すぐにパンフレットを取り寄せた。なかなか豪華である。しかも高い!これは作ってみなくてはなるまい!そして二度目の過ちにに手を染めるべく発注してしまったのだ。

届いたキットはかなり優れたモノであった。材料も全うである。これは良い音が期待できそうである。長い戦いが始まった。早くも結果を言おう。惨敗である。全くの惨敗である。塗装で大失敗をしたのだ。仕上げを急ぐあまりに、厚くしすぎてしまったのである。軽やかな音が出ようはずもない。

その教訓を生かし、さらに2度目の「YAIRI」ギターキットをすぐに発注した(懲りてね〜な!)そして、さすがに今回は上手くいった。きちんと美しく仕上がり、音色もそこそこであった。しかし、それまでに掛けた金額を考えると、本物が買えたのでは?との疑問も浮上するが、それはこの際言わないことにしよう。「オレってギター作りが向いているのでは?」ふとその時思ったわたしである。早速ギター作りの学校を探した。

見つけたのはアメリカの学校であった。つまりアメリカ留学になるのだ。しばらく悩んだ末、本当にその学校へ行きたくなった。そこで、妻に相談した「オレ会社やめて、2年間アメリカのギター製作学校に行きたいんだけど、いいかな?」妻は思わぬ答えを返してきた「いいわよ!」あっさりそう答えたのである。これは辛かった。妻に反対されればムキになって「絶対行ってやる!」と頑張ったのだろうが、こうあっさりとOKされるととたんにシオシオ・・・と私の野望は萎み、すぐに消え去ってしまったのであった。情けないほどの根拠うすい野望だったのである。

野望が消えたのと同時に、新たなる出会いが始まった。原田真二のデビューである。彼のサマーツアーのドキュメンタリー映画を作ることになり、私が助監督として参加することになったのだ。打ち合わせ、合宿、武道館ライブ、編集、仕上げと付き合ううちに、彼が使っていた「ギブソン・レスポール・カスタム」が魅力的に見えてきた。物欲はわき上がるばかりである。私、25才の夏であった。

その後、26才になりたてのころ、急にCMのアメリカロケが決定した。L.A.である。1週間のロケーションの間はまったくプライベートな時間がとれず、最後の日になってプロデューサーから「なにかやりたいことはあるか?」と聞かれ「ギターショップに行かせてください!」と頼み込んだ。が、その日はもう店はしまっていた。残る時間は帰国日の空港に向かう途中だけであった。

コーディネータに頼み込み、朝っぱらから「ギターセンター」に飛び込んだ。目指すは「ギブソン・レスポール・カスタム」何とか見つけだし、ケースもいいやつを選び出し、店を飛び出したときには、帰国便に間に合うかどうかすれすれの時間になっていた。このギブソンは、今も私の机の横にある。

その後すぐに、バンド活動を行うようになった「ザ・シズル」担当はリードギターである。しかし、私はギターを弾くために買ったのではなく、勢いとその美しさを手に入れるために買ったのだ。それからの練習は日々地獄のようであった。

バンドをやれば、当然ライブである。そのためにはステージ用にサブのギターも欲しくなる。次に目指したのは「フェンダー・ストラトキャスター」であった。これは「ギターマガジン」の「売ります!」コーナーで見つけた。10万円を9万円に値切り、小岩の喫茶店で待ち合わせをした。相手は高校生であった。キャンディーグリーンの「フェンダー・ストラトキャスター」の所有権はその日、私へ譲渡された。 このギターは長い間使っていたが、バンド解散の時に「あのギターもう使わないでしょ?譲ってくださいよ〜!」と社員に頼まれあっさり6万円で譲ってしまった。右の写真がそのギターと私だ!

30歳を過ぎると、かなり頻繁にアメリカロケに出るようになった。年に数度行くようになり、時間もある程度とれるようになったので、ギター屋巡りはかなり行った。だが、ギター屋だけではつまらないので、青空骨董市で何か見つけようと出かけた。パサディナの「ローズボウル」で毎月開かれていた青空骨董市へ一人で行ってみたのだ。そこで見つけたモノは「ギブソン・レスポール・スタンダード」であった。かなり美しい品であった。

日本円にして12万円の値札が付けられていたが、これまた値切りを入れてみた。つたない英語でもやってみるモノである。見事に10万円になったのだ。この「ギブソン」は帰国後3日目にして、当時のバンドメンバーに奪われるように持って行かれた。しかも10万円を5か月の分割払いにされてしまった。私はいったい何のために・・・。左の写真はその奪われた「ギブソン・レスポール・スタンダード」だ!

そのころ、また新たなる無駄な趣味に手を染めていた。エレクトリックギター作りである。以前、アコースティックギターは作ったが、今回はエレクトリックなのだ。これは塗装がどうのこうのと言う部分が少なかったので、なんとか3本作り上げた。だがやはりメーカーモノにかなうはずもなく、引っ越しの際に全部処分してしまった。

珍品もあった。明石家さんまがCMに出演したときに、小道具として使った「ピンクのフライングV」が会社の倉庫に眠っていたのだ。ただし、これは撮影用に指板もボディーも塗装がされていて、まったく弾ける状態のモノではなかった。そこで、廃棄処分寸前に貰い受、パーツを分解した後、丹念に塗装をはがし、かなりのコンディションまで戻したのであった。一度だけライブのウケの為に使ったが、弾きづらかったのでこれもまた引っ越しの際に粗大ゴミとして東京湾に埋められてしまった。36才の夏の出来事であった。

そして、いよいよ「オベーション・コレクターズ・エディション」だ。これもまた仕事先のL.A.で購入した。この購入にあたってのどたばたは以前書いたので、今回は省くとしよう。こいつも現在私の手元に残っている。右の写真はそのオベーションの後ろ姿だ。

さらに1年後、おなじ店で「ギブソン・ES335」を手に入れた。帰国後それを聞きつけた知人から「是非譲ってくれ!」と哀願され、またもや購入した価格で渡してしまった。さらにその時「オベーション・アダマス」もL.A. で購入したが、やはりそれも一瞬にして知人の手元へと渡っていったのだ。このように、人の良い私は哀願されると弱い。手元にギターはいっこうに溜まっていかない仕組みなのだ。

このところ「Mosrite」や「B.C.Ricn モッキンバード」が欲しくなってきている。特に「Mosrite」は少年の頃の夢を果たしたいとも思っているのだが、手に入れずに夢のままでいるというのもオシャレかもしれないな。

てなことで、これから先もいくつかのギターを私が入手し、さらにどなたかへ譲られていくこともあるだろう。次回からは是非、マージンを忘れないようにしなければ!

追伸
そして、1999年!ギター熱は再燃した。その後、購入したギーターがあるのだ。

B.C.Rich Mockingbird
Fender /J Stratocaster 57-70TX
B.C.Rich Mockingbird SUPREME

これらが仲間入りした!!!

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