吉田的雷鳴日

2022年07月28日 吉田拓郎氏を初めて観た日!



「何を経験し、何を記憶したのか?」

先日のテレビ出演で吉田拓郎氏のテレビ出演は最後となり、本年いっぱいでライブ活動も終わりにすると聞いた。そこで思い出したことがある。私が吉田拓郎氏を初めて観た日の出来事だ。遠い昔のことだがはっきりと記憶しているのだ。

1971年7月17日。その日はアルバイトの日だった。旧後楽園球場でのロックコンサートが開催予定で、当時大人気の「グランド・ファンク・レイルロード」がステージをやるというので、会場整理のアルバイトを楽しみにしていた。ロックコンサートの会場整理は客入れの際に客に聞かれれば席まで案内し、変な動きがあればそれを止めに入るというガードマン的な役割も持たされていた。

多くのロックコンサートのアルバイトをやったが、演奏が始まるとほぼやることはなく客と一緒にライブを楽しんでいた。それでバイト代と弁当がもらえるのだから結構お得なアルバイトだったのだ。私の住んでいた学生寮にそのバイトの手配師がいて、コンサートのたびに声をかけられていた。他にもレッド・ツェッペリンやエルトン・ジョン、CCR、などあの時代の錚々たるミュージシャンをギャラをもらいながら楽しませてもらった。

ただロックコンサートのアルバイトは、例えば武道館の場合下手すると駐車場の整理係に回されることがある。これは現場に着いてからその場で「君はこっちに行って!」と指示されるので事前にはわからないのだ。だが、それを避ける方法を私は知っていた。「様子が良い男」は館内の案内係に回されるのだ。つまり、きちんとした髪型とスーツを着てこざっぱりして行くと「招待者席の案内係」に任命され易いのだ。これは効果があった。大抵私は「招待者席」に行かされたので有名人の招待客たちは騒ぎを起こすこともなく、ステージが始まればあとは一緒に楽しむだけだったのだ。

ただ、一度だけ武道館で「こりゃやばいな!」と思ったことがあった。アルバイトを仕切っていた人物から大ぶりのモンキースパナを渡された事があった。「裏口付近で暴動が起きそうだからこれを持ってサポートに行ってくれ!」と言われたのだ。確かにそこには会場に入れなかった不良ロック好きが集まっていた。そしてこう口走っていた「ロックは貧乏人の音楽だ!どうして俺たちを排除するのだ!中に入れろ!」その中に、毎回会場に入れず最後に騒ぎを起こす人物を見つけた「またあいつかよ・・・」そこに止めてあった乗用車は次々に蹴飛ばされ屋根に乗られてベコベコになった。私も奴らと壁に挟まれて押しつぶされそうになったが、流石にスパナを取り出す勇気はなかった。なんとか身を守ったが、程なくしてミュージシャンたちは車で立ち去り、騒ぎは収まった。

話を戻そう。

1971年7月17日は後楽園球場にたどり着いてみると「ここは人数が足りたから君たちは上野の水上ステージに行ってくれ!」と指示変更があった。えええ???GFRは聴けないの???とガッカリしつつも上野へ移動した。不忍池にその水上ステージはあった。青空での警備活動なのだ。出演者は「グリーメン」と「吉田拓郎」客席を観ると南州太郎が来ていたな。グリーメンのコーラスが終わるころ空が曇り始め黒雲になってきた。吉田拓郎の出番になり歌い始めてまもなく雷が鳴り始めた。すぐ近くに落雷したと思われるほどの雷鳴に「ひえ〜!!!怖いよう!怖いよ〜!」と吉田拓郎は悲鳴を上げ始めた。そして豪雨となった。そう!伝説のあの「嵐のGFR」コンサートの時に私は吉田拓郎を観ていたのである!これが最初の出会いだった。

当時はラジオの深夜放送が盛んで、毎週のようにフォークコンサートの招待募集をやっていた。妻と知り合った頃の話である。彼女は当時アルバイトでラジオ局のフォークコンサート招待はがきの当選者へ当選ハガキを送る仕事をしていた。そこで聞いたテクニックがあった。応募ハガキに「彼と一緒に行きたいので二枚送ってください!」と書いてあるとつい二枚送りたくなるのだという。そしてそれはその通りになった。

それから一年間は、かなりの回数妻とフォークコンサートを聴きに行った。例えば文化放送主催の共立講堂などが多かったな。吉田拓郎を始め、泉谷しげる、高田渡、五輪真弓、等多くのフォークシンガーを楽しんだ。東京ならではの招待状作戦。今考えれば、音楽に関しては一年間で随分贅沢な経験をさせてもらった。

51年前の日々。早いものだ・・・。ほぼ半世紀前の記憶なのだ。そして、当時楽しませてもらった吉田拓郎氏はその活動を終えようとしている。残念だが、それが人に定められた時の流れというものだ。当時19歳の私自身ももう70歳になった。自分自身が「生産活動をやめるべきだ」と思う日がそう遠くないうちに来るはずだ。結局、人生は記憶の中にある気がする。何を経験し、何を記憶したのか?「1971年7月17日午後、吉田拓郎は雷を怖がった」という事実を一体何人が記憶しているのだろう?


本日の結論
1971年7月17日夕方、私はスーツ姿でびしょ濡れになって上野不忍池にいた!



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