古希的誕生日

2022年05月14日 生き抜いて70歳に到達!


老人ぽくするため髭を伸ばしてみた!


「これから先はまた未知の世界を楽しもう! 」

私の人生で起こったことを思いつくままつらつらと書いてみる。時間軸は前後すると思うが。

時が流れるのは、過ぎてしまえば驚くほど早いものだ。2022年5月14日の本日、私は70歳となった。よく生き残ったものだと今更だが自分でも驚く!1952年、まだ戦後の貧しい時代の真っ只中に私は生まれた。宮崎県児湯郡妻町大字右松575が私の生誕の地である。結婚するまではここが私の本籍地だった。

65歳を過ぎてから知人の訃報に接する機会が増えた。近年になって親しくなったギタリストやギター関係者も次々に召されていく。本来、生物として生きていくのは65歳ぐらいが自然な人間の寿命なのかとも思う。近年、糖尿病や高血圧、痛風の患者が増えたと耳にする。それは、長生きする老人が増えただけのこと。そう、自分もリッパに公的に老人として認識されているし、孫の前では一人称を「じいちゃん」といつしか呼ぶようになった。大昔のように60歳前後にほぼ亡くなってしまうような状態では、厄介な病気になる前に消えてしまっていたのだ。

父は67歳の春に前立腺癌の転移で亡くなった。私にもその因子はあると信じて、毎年血液検査を繰り返している。今のところその兆候はない。だが確実に、糖尿病や高脂血症、通風などの病歴は増えていく。血圧だけはいまのところかなり低くて大丈夫なのだがね。最近は、長年納めた医療保険を取り戻すかのように病院通いが続いている。これから先の不安は白内障だ。妻にはその兆候が出始め、検査の結果7月に両眼ともに手術してレンズを入れる予定だ。妻は早くやりたいと手術を切望していた。

白内障もそうだが、歯の治療にも年齢とともにカネがかかるようになる。老後の資金計画の中にそれを入れておかないと、いざという場面でかなりの出費を要求される。私の場合で言えば、歯の治療でインプラントを選択して口腔内を全面やり直してもらったので、2019年に約400万円の出費となった。妻の白内障も100万円近い出費となるはずだ。他にも細々と医療費が年中必要になる。医療保険が使えても持ち出し分はかなり大きいし、非保険部分も多いのだ。歳を取り、収入が少なくなっても病気は待ってはくれない。それを補うだけの蓄えは必要だ。現在健康であることは将来への何の保証にもならない。

この歳になってありがたいと思うのは年金の存在。蓄えと支給される年金金額でなんとか生きていける。まだ若い方は理解しづらいだろうが、年金支給年齢に達したら、迷わず貰い始めることをお勧めする。妻の父は年金支給開始直後に亡くなった。数回もらっただけだと聞いた。払うだけ払い続けてもらわずに亡くなる方も多いのだ。遅く貰い始めるほど多く支給されるような情報が流されているが、それにも気をつけたほうが良い。金額が多くなると税金も保険料も増える。自分の寿命が尽きるまでに受け取る総額は大して違わないのだ。早く貰い始めて早く使うべきなのだよ。

人生で2回ほど「確実に死ぬ瞬間」を味わったことがある。一度目は8歳の頃、小学校2年生の下校時に雨上がりの崖で足を滑らせ谷底に落ちかけたときだ。崖っぷちに生えていた細い竹の束にしがみついて宙ぶらりんとなり「たすけて〜!」と大声で叫び続けた。数分後握力が無くなる寸前、近所に住む3歳年上の佐藤健一郎くんが通りかかり引きずり上げてくれた。1分遅れていたら、私は今この文章を書いていない。しかし、その助けてくれた佐藤くんは40歳のとき胃癌で亡くなった。大酒飲みだったという。私自身は45歳でアルコール摂取をやめた。その後は極めて快調である。

二度目は55歳の2月末。一年間きつい鬱病で苦しみ続けた挙げ句、会社帰りにJR大崎駅で電車に飛び込もうとした。今なら死ねる!と確信した瞬間だった。だが、その直後に妻と娘の顔が浮かんだ。俺が死んだら彼奴等はどうするのだ?と飛び込む直前に足がすくみ、直後電車は目の前に止まった。その2日後、会社を休職した。駅のホームに立つのが怖くなったのだ。鬱病治療のため自宅に13ヶ月間籠もった。

籠もった期間は、私の人生で初めて「何をしても良い長い期間」だった。当初3ヶ月間はただ眠り続けるだけの日々。何も出来ず、何もやりたくなく。保険組合から毎月支給される「傷病手当」で生活していた。しかし、人は何もせず生きていくのは難しい、何かをやりたいと思うようになった。半年たった頃からハンダゴテを持って工作を始めた。やがて小さなギターアンプを作れるようになった。その作業に没頭したが、これは自分の思考が「死」に向かうのを防ぐためだった。50個ほど作って配ったり買ってもらったりしていた。手元には一個だけ残っている。

そして人生の転機が訪れた。

誘いがあって2007年4月1日から、勤務していた会社の関連新会社へ勤めることになった。鬱の真っ最中だったので、月水金の週に3日間だけ出社した。管理職なので、あれこれ総務や社長の相談役として働いたがどうにも鬱が抜けずにつらい日々だった。と同時に、休みの日にギターを作ったりして時間を費やしていた。その後、9月になり突然エフェクターを作りたくなり試作を始めた。2週間後初号機が出来上がった。その後は皆さんご存知のように、あれよあれよという間に口コミで広がり世界中の多くの有名ギタリストと知り合い、来日ライブに足を運び楽屋で話もできるようになった。そのせいで、63歳で英会話を学ぼうというモチベーションも生まれた。今では毎日少しづつ自主的に勉強するのは苦痛ではなくなった。アメリカへホームステイにも一人で行けるようになり、精神的な自由度は大きく広がった。そして、現在までに68カ国にペダルを出荷した。ロシアにも「禅駆動」が2個存在する。

本来書くべきことはもっとたくさんあるのだが、このザックリした内容と分量で終わりにしよう。70年も生きていると、思い出すことが多すぎてキリがないのだ。いずれまた、人生の詳細を書く日が来るだろう。到達することを想像もしていなかった年齢に突入した。これから先はまた未知の世界を楽しもう!

本日の結論
思い出し始めると辛いこともあるね。でも明日のことを考えるべきなのだ!



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