満開的桜花考

2021年03月27月 今年もまた桜を愛でる幸福感!



「来年2022年の春もまた」

長年に渡り、桜に興味がまったくなかった。子供の頃は「なぜ大人は満開の桜の下で集まって酒を飲むのだろう?」と不思議でならなかった。宮崎県の小林市で子供の頃5年間育ったが、その頃の「牧場の桜」という言葉と薄ぼんやりとした情景だけが記憶に残っている。

やがて東京に出てきてもそれに変わりはなく、春になって桜前線の情報がテレビから流れてきても一向に気にならなかった。今から考えれば、せめて上野公園の桜ぐらいはながめに行っていたほうがよかったのでは?とも感じるがね。それから長い年月が流れる中では、仕事上の付き合いで「営業花見」をする機会もあった。それは不快ではなかったがそう楽しいものでもなかった。なんとなく、居心地が悪い場所だった。ほとんど酒を飲めない体質だったせいもあったのだろうな。迷惑な酔っ払った花見客が大嫌いだった。

しかし、その精神状態にも変化が訪れた。若い頃から、軽い鬱状態が数ヶ月続くことが何度かあった。長くても3ケ月間程度だったがね。初めてそれに気がついたのは20歳の頃。その後も数年に一度それはやってきた。その度に自分の精神状態を推し量りながら、受け流すように暮らしていた。その当時はまだ「鬱」であると私自身も思っては居なかった。だが、その変化に気づく人もいた。ある日、私が仕事中に数カ月間に渡り一切昼食をしないことに若手の部下が気づいた。それはやがて上司への報告となり、社長の耳に入った。

珍しく社長から「田辺!昼飯を食いに行こう。話がしたいんだ」と呼び出され「蕎麦くらいなら食えるだろう!」と蕎麦屋に連れ込まれた。社長はあまり多くは語らなかったが、私が何を考えているのか、今後どうしていきたいのかを探ってきた。鬱状態の私はその時の心情と希望を包み隠さず吐露した。社長は「分かった。今いろいろな組織変更のことや新しい部署の構想を練っているので、その時が来たら的確な部署への異動を約束しよう」と締めくくった。

数カ月後、新しい部署への移動が打診されたが私はそれに応じなかった。「辛いけれど面白い」という感覚がその時の仕事には在ったのだ。新しい部署にそれはまったくなかった。その後、社長の約束は長い間果たされなかったが・・・。 逆に私の方が数カ月後には鬱から脱却し、仕事が徐々に上向きになってきた。当時のバブル景気の勢いもあって売上が順調に上がり始め、取引先にも重宝されるようになってきた。すると面白いことに仕事の方が私に飛び込んでくるようになった。こうなると部署異動なんてな話は忘れてしまう。ひたすら当時の仕事に集中していた。今で言えばブラック企業なみの無茶な労働時間だったが不快ではなかった。やればやっただけ売上が膨らんでいった。より予算が大きく面白い仕事もやってくるようになり、やがて社内でトップの売上を果たす日が来た。

そしてバブルが破裂してしまった。直後、私に部署異動の話がやってきた。40歳のときだ。私はそれまでの仕事にそろそろ飽きていたこともあり、新部署立ち上げに参加することにした。デジタル系の新部署であった。社長との約束がようやく果たされた。しかし、まだ業界はデジタル化の波が押し寄せる気配もなく、基礎研究に近いことを繰り返していた。もちろん売上が上がるわけもなく、5年で部署は消えてしまった。だがその5年間に私自身が蓄えた知識は大きかった。部署解散とともに、私は管理職となった。現場のこともデジタルのこともある程度わかる管理職になれる人材は私以外いなかったのだ。5年間の管理職生活の後、突然「子会社への出向」命令がやってきた。50歳直前の私は不安を抱えつつもデジタル系子会社へ役員として乗り込んだ。同時に本社の役員にもなった。

子会社ではほぼ社長代行という立場だった。その会社は大赤字を抱えていたのだが、本社が立て直しを図るために私を送り込んだのだ。それから社内改革を行い、機材の改善を行い売上を伸ばしなんとか3年目が終わる頃には赤字を解消した。役職も常務となり、4年目が終わったときには黒字に転じていた。当初の目標は達成できたのだ。だが・・・そこから先が4年間の精神的負荷に耐えられなくなったのだろうか、5年目が始まった途端に「鬱病」を発症した。2005年3月頭、突然眠れなくなり始めた。一晩中様々な不安が頭をめぐり眠ることができなくなったのだ。不眠症はやがて食欲も奪う。食事がまともにできなくなり味覚も消え2ヶ月で7kg体重が減った。

日々、悲しみが襲う様になった。勤務中に突然やってくるその感情を消す事はできない、ただ通り過ぎるのを涙を流しながら耐えるだけだった。発症して2ヶ月後に精神科で診断をしてもらったところ「真正の鬱病」であると判断された。医師からは「仕事が休めるなら長期休暇をとったほうが良い」と勧められたが自分でその判断はできなかった。鬱病になると判断力さえ奪われてしまうのだ。投薬治療を行いつつなんとか精神状態を抑え込みながら仕事は続けた。ところがあるとき、稟議書が回ってきて驚いた。私はそれを読んで理解できなかったのだ。紙に印刷された文字は「記号」にしか見えず、文章としての意味を持たなかった。呆然とした。焦りながらなんとか文脈を読み取り押印した。

次にやってきたのが「離人症」だった。自分が自分に思えなくなる感覚がそれだ。鏡に写った自分が自分に見えないのだ。常に第三者として自分を見ている感覚がつきまとった。これは鬱感覚の中でも特に厄介なものだった。やがて精神状態は自分でもコントロールできなくなり、勤務中に倒れ込むように眠り込むことが増えた。薬の影響もあり起きていられないのだ。昼食時間は「睡眠時間」に充てた。やがて一週間単位の休暇を取るようになった。これは本社社長の勧めだ「いままでほとんど有給消化していないだろう?十分に休め!」と言われた。最長で二週間連続休みももらった。これを数度繰り返すうちに「死」が密かに近づいてきていた・・・。いつしか「死」を望むようになっていく自分になっていた。それは「消滅願望」だった。死というよりも「この辛い鬱感覚から逃れたい!今すぐ消えてしまいたい!」との思いだった。多くの鬱病患者が経験する感覚。それが日々続いた。そして突然限界がやってきた。

2006年2月末。会社帰りのJR大崎駅、やってきた電車に突然飛び込もうとしたのだ。それは自分でも全く予想できないとっさの行動だった。だが、その電車に向かって進む中で突然「女房と子供」の顔が浮かんだ「彼奴等はどうなるんだ?」足が電車の直前で急激に止まった。一秒遅ければ今の私はもうここには居なかったはずだ。その2日後、私は休職を決めた。本社社長と役員の勧めもあり、無期限の休職とした。休職期間の給与は保険組合から傷病手当が支給されると聞いた。当時の給与の60%が毎月支給される。かなり高額の給与をもらっていたので、60%でも休職する身にとっては充分な金額だった。最長18ヶ月間支給されるという。

2006年3月2日から私は自宅に籠もった。何もできなかった。ただ毎日リビングのソファーに寝転がりぼんやりとテレビを眺め続けていた。3月末になり桜の季節がやってきた。久しぶりに散歩してみようと外へ出た。満開の桜は私の住む周りにもたくさんあった。それを眺めながら歩いた。だが桜に対する感情はあまり沸かなかったが一つだけ「この桜を私は来年も見られのだろうか?あと何回観られるのだろうか?」と浮かんだ。まだ自殺願望が消えていたわけではなかったのだ。一年後、再び別の子会社で働き始めた。が・・・それも二年半で自主退社した。鬱病を引きずったまま出勤し続けることが辛かったのだが、その頃趣味で作っていたギター用エフェクターが少しづつ売れ始めていたことも要因にあった。2009年9月いっぱいでフリーとなった。退社日の気分は最高だった。束縛がない感覚。久しぶりに心地よかった。

これ以降、毎年春が待ち遠しくなった。それは「自分自身の生存確認」のためだ。今年も満開の桜の下で生きている・・・。この感覚が嬉しかったのだ。やがて気付くことあった。一週間の桜の命を日本人が愛でる気持ちが理解でき始めたのだ。数年前からは満開の桜とともに自分の写真を撮影してもらうようになった。これもまた生存確認である。幸いにして娘は現在プロカメラマンとして活躍している。昨日も桜吹雪の舞う中で撮影してもらった。2021年3月の生存確認なのだ。2012年に鬱病を脱した今でも桜は大好きだ。

私は鬱病を経験しなければ、桜を好きになっていたかどうかは分からない。日本人としての感覚が無自覚のまま桜に相対していたかもしれない。来年2022年の春もまた愛おしい満開の桜の下で写真が撮れることを切に願うばかりである。


本日の結論
春はいいねえ!

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