年齢的超越日

2020年01月31日 今日から人生を再スタート!

    昨日の検査の結果、67歳にして極めて良好な血圧!


「この年齢になっても新しいことを始めるのは楽しいものだ」

今日を迎えてふと考えたこと。父親という存在について急に考え始めてしまった。何が気になるのだろうか?ちょっと深く掘り下げてみたいと思って思考開始した。

まず最初に私は父の何を知っているのだろうか?との疑問から始まる。父の生い立ちについては、その実家も爺さん婆さんも生きていたときに会っているから問題なさそうだ。父は7人兄弟の次男として大正13年に生まれた。姉3人妹1人兄1人弟1人の構成。姉の1人は若くして亡くなったようだ。一度だけ墓参りした記憶がある。兄弟の中で現在生き残っているのは父の弟一人だけだ。かつて祖父は「本部」姓だったが養子に出され「田辺」姓となった。私はひょっとしたら「本部敏彦」だったかもしれないのだ。

爺さんは、学校の校長をしていたという。厳格な厳しい性格だったようだが、孫たちには優しかったと記憶している。婆さんは、おとなしく優しい地味な方だった。父の実家は宮崎県西都市にあったが、今は土地が売られ家は建て直されて昔の記憶の風景は全く残っていない。かつてお盆や正月には家族揃って父の実家に集まった。その昔の良き日本の伝統的風景であった。このあたりは私の記憶にもしっかり残っている。高校3年の頃、バイクに二人乗りで父と訪れたのが最後だ。

父は生涯税務署員であったが、父が退職した直後に聞いた言葉は「この仕事は俺には向いていなかった」だった。子供の頃から頭が良くて、爺さん自慢の息子だったようだ。油絵が好きで画家になりたいとの夢を持っていたのだが、大東亜戦争時に徴兵され実弾を3発試射しただけで訓練が終わり台湾へと向かったそうだ。終戦末期のことだったのだろう。その先の戦地の話は父はあまり喋りたがらなかったが、いくつかのエピソードは聞かせてもらった事がある。

とにかく戦争末期には食い物がなかったようだ。蛇も捕まえて食ったと言っていたが、意外な話もある。夜になり、兵舎で腹をすかせていた中にもと菓子職人が一人いたという。そこで、彼に頼んで丹念に羊羹がどうやって作られるのかをみんなで聴いたとか。哀れだがなんとなく可笑しくもある。

兵舎で物がなくなると、なくした者は鉄拳制裁を浴びたという。そのため例えば帽子が盗まれると、盗まれた兵士も他の兵士の帽子を盗んだとか。しかし、それが出来なかった兵士は上官にボコボコに殴られたようだ。父はどちらの立場だったのかは明らかにしなかったがね。父は通信兵だったようで、戦闘要員ではなかったらしい。あまり定かではないのだがね。

実は父は心臓が弱く、私は彼が運動をした姿を観たことがない。つまり、一緒に走ったり泳いだりしたことがないということ。せいぜいキャッチボールをするくらいだったね。幼い頃は家族四人で父が漕ぐ一台の自転車に乗り遠くまででかけたことは頻繁にあるけどね。宮崎県の小林市に鯉の養殖で有名な「出の山」がある。ここは少し遠かったが父の自転車に載せられて何度か行った記憶がある。

なぜこれを書いているかというと、私自身が父親としての責任を娘に対しどこまで果たしたのかと考えたからだ。子育ては妻に任せっきりだった。仕事だけで精一杯の精神状態が鬱病になって会社を辞めるまで続いていた。しかし今振り返れば、娘と遊んだ記憶が殆どない。私は何をやっていたのだろう?との思いがめぐる。

なぜこの文章を書き始めたのか理由をそろそろ書こうか。父は平成4年4月29日に亡くなった。前立腺癌による闘病の末にやせ細った父の臨終を私は病院で看取った。父の生きた年月は67年と8か月半だった。そしていま私も生後67年8か月半を迎えたのだ。つまり、今日の私は父が生きた年月を満了したというわけだ。そう考えると父の末期はあまりにも若く脆く早く過ぎていったようだ。若い頃から病気がちな父は「マサコ!マサコはどこか?」と頻繁に口走っていた。妻である私の実母が父の生涯を支え続けたのだ。母がいなければ動きが取れない父だった。鬱持ちだった父は母の姿が見えないと不安だったのだろう。

此処から先は、父が生きられなかった時間を私は生きていくことになる。平均寿命が伸びた昨今では81歳が男の平均寿命だが、現実にはすでに67歳になっていると90歳以上まで生きることになるという。そうなると、この先25年程度は生き続けなければらならなくなり、色々考えなければならないことも多くなる。

私はタバコを23歳でやめ、酒も45歳でやめた。今は日々散歩を繰り返し脚力の衰えを防ぎつつ、健康的な食生活を維持している。野菜と肉魚卵を主に食べ、デンプンはあまり食べなくなった。食事は基本的に朝と夕方の二食。糖尿病対策ではあるのだが、健康を保つためには大いに役立っている。糖尿病と睡眠時無呼吸によって発生していた昼間の眠気が痩せたことによって今はまったく無くなった。これもまた、この先の人生を楽しむためには必要な対策だったのだろう。

ということで、父が到達できなかった67歳8か月半以上の人生を、私はこれからの新しい人生として位置づけて続けることになる。今までにやらなかったことや、やり残していたことを見つけてクリアしていくことにしよう!この年齢になっても新しいことを始めるのは楽しいものだ。英語だってまだまだ中途半端なままだし、もう少しは進化させたいものだ。


本日の結論
問題は、どうやってソレを実現するかだ。コストと時間の新しい戦いが始まる。

「独断倉庫」に関しての御意見は「啓示倉庫」へ書き込んで下さいな。



GO TO HOME PAGE