文鳥的友人考

2018年08月17日 友人と文鳥を同時に思い出す。



2006年に亡くなった当家の文鳥ラッキーは10年間遊んでくれた。



「誰か津田早美君を知りませんか?」

今日もまた古い記憶が蘇ったので急いで記録しておきましょう。

ある人物の記憶です。名前を「津田早美」と書いて「つだはやみ」男性です。中学1年生〜2年生の二年間同級生だった方です。6年ほど前に宮崎で開催された中学校の還暦同窓会にその姿はありませんでした。ネットでこの名前を検索しても一件しか出てきませんし、しかもそれは女性でした。男性は一件もありませんでした。上に昔飼っていた文鳥ラッキーの写真を置いたのは、津田早美君の写真が見つからなかったから。一枚だけ持っていたはずなのですが・・・。彼と文鳥に纏わる記憶を思い出したからです。

なぜ突如記憶が浮かび上がったのか?は、よく分からないのですが、かなり前からもう一度会ってみたいとの願望があったようです。「終戦の日」の前後には古い記憶がやたらと浮かび上がるのです。さて「津田早美」君に関してどの様な記憶があるのかを書き出してみましょう。

彼と最初に出会ったのは、宮崎市立赤江中学校一年生のときでした。同級生です。記憶はもう薄れているのですが、おそらく名前の順が近いので隣の席だったと思うのですよ。「津田早美」は母子家庭でした。お母さんは看護婦さんでした。宮崎県立農業高校正門前にあった2階建ての食料品店の二階の一部屋に間借りをして住んでいました。私の登校途中に在ったので、帰り道によく寄っていました。

「津田早美」は絵の上手な少年でした。人を寄せ付けず口数の少ない色白の少年でした。あまり運動が得意ではなく、私とそのあたりは似ていましたね。母子家庭でお母さんの夜勤も多かったので、彼のお昼ご飯はいつも売店で買うパン二個。牛乳だけが学校給食として支給されていました。私は毎日弁当持参でした。そして同級生になってすぐに、私は彼の昼食がいつもパンであることに気づいたのです。それは母親の仕事の都合でそうなっているのだと理解しました。

ある日私は「僕の弁当半分食べないか?」と「津田早美」に問いかけ、彼から交換にパンを一個もらいました。弁当の蓋にご飯やおかずを半分入れて「津田早美」に渡し、箸がなかったので一本箸でお互いに食べました。その日から中学二年生の終わりまで、その弁当半分交換はずっと続きました。どういうわけか、箸をもう一組用意することはなくずっと一本箸のままでしたが。なぜそれが二年近くも続いたのか?理由は「友達だったから」しかありません。

「津田早美」の家は商店の二階にあった間借りの一部屋だけでした。廊下との境はドアではなく襖でした。その部屋は8畳ほどあったでしょうか。部屋の中で文鳥を飼っていましたね。鳥かごはいつも開けっ放しで10羽程の文鳥が飛び回っていました。ある日、学校帰りに立ち寄った私はトイレに行った後部屋に入ろうと襖を開け一歩足を踏み入れたところ、足を下ろした地点にちょうど文鳥がいました。私はその文鳥を踏みつけてしまい、すぐに足を外したのでその時点ではまだ死んではいませんでしたが、文鳥の脚の骨が折れたようでした。私は「津田早美」に詫ましたが・・・。翌日になり「あの文鳥が死んだ」と知らされました。それからしばらくは「津田早美」から「文鳥を返せ!」と何度も言われました。しかしそれで友情が壊れることはなく、ずっと弁当半分作戦は続きました。実は、私の母はこの弁当半分作戦を全く知りませんでした。かなり後年になってからこの事実を母に伝えましたがね。

「津田早美」の母親は優しい方でした。そして私の存在をかなり気に入っていたようです。もともとあまり友人がいなかった「津田早美」の貴重な友人だったようです。中学二年生の終わり、中学三年生へのクラス替え準備の時期になり、津田の母親は中学校側へお願いに行ったそうです。「三年生になっても田辺くんと同じクラスにしていただけませんか?」とね。その願いは聞き入れられず、三年生のときは隣のクラスへと別れてしまいました。必然的に弁当半分作戦は消えてしまいました。

三年生になってしばらくした頃、1967年〜1978年、彼は髪型をマッシュルームカットにしていました。ビートルズ全盛の頃です。音楽とか、バンドとかそういうものに興味を示していなかった彼がなぜ突然その髪型にしていたのか知る由もなく、疎遠になりそのまま中学校を卒業してしまいました。津田早美の家はその後、住んでいた間借りからすぐ近くの一軒家へ引っ越したそうです。彼は宮崎県立水産高校に進学したとの情報を風のうわさで聞きましたが、その後一度も会うことはなく50年が過ぎ、今に至っています。

更に細かいことを掘り起こせば出てくるでしょうが、今日はこのあたりにしておきましょうか。古い友人の消息を探していると「あの方は数年前に亡くなったのですよ」と言われることが多々あります。私がふと思い出したのは、お互いに66歳になったいま無事に生きているのか?だけを知りたくなったからです。もし宮崎出身の「津田早美」66歳(男)にお心あたりがあればお知らせくださいませ。誰か津田早美君を知りませんか?

本日の結論
記憶を掘り起こす作業は毎回苦しい・・・。

「独断倉庫」に関しての御意見は「啓示倉庫」へ書き込んで下さいな。



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