戦後的記憶考

2018年08月15日 大東亜戦争が終わって7年後に生まれた私。

小学1年生まではこの壱円札を使っていた記憶があります。



「母の秘密」

終戦記念日の今日、記憶を定着させておくために書き留めておきます。遠い遠い昔の記憶です。
いま、コレを書こうと思ったきっかけは母の年齢です。昭和二年産まれ、今年で91歳です。まだまだ元気、宮崎の実家で一人暮らししていますが、これから先はどうなるのか予想がつきませんからね。私自身の記憶もいつ思い出せなくなるかもしれませんし・・・。面白い内容になるとは思えませんが、とりあえずかき出してみます。

終戦後まだまだ日本が貧しい時代1952年に私は生まれ、物心ついた当時の風景をよく記憶しています。思い出す度になんとなく埃っぽい日向の感覚が鼻腔をよぎります。なんだろうこの匂いは?道路がほとんど舗装されていなかった時代だからですかね?車が通る度に土ボコリが舞い上がっていましたよ。そしてその匂いとともに胸を締め付ける想いも蘇ります。

私が生まれる前から父「敏夫」はずっと地方公務員でした。大正13年生まれの父は、終戦時22歳〜23歳ですね。もちろん大東亜戦争の生き残りで台湾から引き上げてきた後に宮崎県庁職員になりました。終戦後5年たち、両親が結婚し昭和27年5月14日(1952年)に私が生まれました。職場結婚でした。父は心臓に欠陥があったようで、虚弱体質でした。走る姿は一度も見たことがありませんでした。結婚に際して母の親族からは「あの男とはやめておけ!」と強く反対されたそうです。しかし母は「私が彼を守り続けます!」と言い切って結婚にこぎつけたのだと5年ほど前に年上の従兄弟から聞きました。

貧しかったけれど自分たちのお金だけで結婚式を挙げたとか。その後父は県税事務所で真面目に勤め続けましたが、40代で発症した鬱病が慢性的にあり続け、当時の55歳定年の一年前に鬱病の悪化により54歳で早期退職しました。退職前に一年間ほど入院し続けていたようですが、私がそれを知ったのはずいぶん後年になってからでした。66歳で前立腺癌になり67歳で亡くなるまで再び働くことはなく、のんびりと年金暮らしをしていました。自分で買った家があり、酒、タバコ、博打をやることもなく車も持っていなかったので財力的には海外へ遊びに行く余裕もあり、生活に不自由はなかったようです。何度か孫に会いに上京してきましたし。

ちょっと私の話も書きます。私は若くして23歳で結婚しました。昭和54年でしたか、26歳で東京の江東区東陽町に初めてのマンションを買いました。その直後私の両親は、私に対して結婚の際も結婚後も何一つ援助してやれなかったのでと、突然私の銀行口座へ200万円を振り込んできました。「これで家具を揃えてください」との父の思いでした。これは41年ほど前ですから今の価値にすれば、500万円以上ありますよね。そして、その振り込まれたお金について妻に相談しました。「両親からマンション購入祝として200万円振り込まれたのだが・・・」すると妻は即座に「それはご両親が老後に必要なお金です。すぐに全額お返ししてください!」と強く迫られました。父の気持ちも分かる私は「それでは60万円をありがたく頂いて残りは返しましょう!」と翌日140万円を返金しました。両親は残念そうでしたが・・・。ちなみに60万円は当時の贈与税がかからない限度額です。父も見事でしたが、妻も見事でした!

今日もっとも書き留めておきたいと思ったのは母のことです。昭和2年生まれの母「マサ子」は宮崎県の高岡町にあった庄屋の娘です。戦前は多くの小作人に畑や田圃を貸していたそうです。戦時中にも食料に不自由することはなかったとか。裕福な家庭で育った母でしたが女学生の頃父親を亡くしました。50歳過ぎだったようです。爺さんの写真は一枚しか見たことがありませんが、50歳頃のはずなのに80歳位に見えました。平均寿命が50歳の頃ですからね。

そして大東亜戦争。18歳で終戦を迎えました。数年後(昭和25年か?)に父と結婚。まだこの頃は日本全体が貧しく、特に宮崎の田舎のことですからインフラも十分ではありません。母の実家は後年取り壊されるまでずっと井戸水でした。

私が記憶する一番古い家の記憶が多分1954年ころ(昭和29年)です。現在の宮崎県立芸術劇場の近くにあった小さな一軒家でした。土間の台所と6畳か8畳程度の畳の部屋がありました。そのトイレは当然ため置き式の古いもの。板張りに四角い穴が空いただけの簡素なものでした。そしてそこには、上から覗くとおもちゃの刀がたくさん落ちていました。私が腰に刀をつけたままトイレに入ったせいです。私がしゃがむとおもちゃの刀はスルリと抜けて落ちてしまったのです。それが何度も繰り返されたようです。父はその度に新しい刀を買い与えていたようですね。さらに、刀を1本買ってもらうと私は「一本じゃだめぢゃが!侍は二本差しとる!」と二本目を買わせたとか。

なぜ幼い私がこの頃の記憶をしっかり残しているのか?その一番の原因は火傷です。当時はガスコンロも石油コンロもなく、炭火で調理していました。七輪におこした炭火を金属の火ばさみで弄っていた母の後ろから私が近づいたところ、母が振り返りました。私に気づいていなかった母はその火ばさみを私の太腿に押し当ててしまったのです。それは一瞬の出来事でした。しかし、その一瞬が残した火傷痕は私が高校生になる頃までずっと在り続けました。今でもその話が出ると母は私に謝りますが・・・。

そしてその頃、当家は貧しさのピークだったのでしょうね。父の公務員給料だけで生活するのは相当苦しかったようです。(当時の公務員給与は初任給が5,900円)母は先にも書いたとおり、幼い頃裕福な家庭で育っていました。初めて父から渡された月給を3日間で使い果たしたこともあって、金銭管理が全く出来なかったようです。それ以来、金銭管理は父が亡くなるまでずっとやっていました。税務署員ですから金勘定は得意だったのですよ父は。

そのため母の自由になる金はほとんどなく、必要になればその都度父からもらっていたようですが、金銭にまつわる当時の悲しい話を一度だけ母から聞いたことがあります。母の姉が歩いて30分ほどの江平という町に住んでいました。時々、私を連れて遊びに行っていたようです。母はおばの事を「えちねえさん」と呼んでいました。母は七人兄弟の末っ子で「えちねえさん」は長女。その際の出来事。

「えちねえさん」の家に向かって延々歩いて行くうちに、3歳ころの私は駄菓子屋の前で「飴玉がほしい!」と駄々をこねたそうです。当時は1円で大きな飴玉が1個か2個買えた時代です。今思えば1円なんてどうにでもなると思えますが、当時の母はその1円札の持ち合わせさえなかったのです。母は私をなだめつつ、1円の飴玉を私に買ってやれない悔しさに涙をポロポロ流しながら歩き続けたと言っていました。

この話を思い出す度に、あの時代の両親の生活に思いを馳せ、泣きそうになる自分がいます。そして、もう一つ母は父が平成2年に亡くなるまでずっと秘密にし続けていた私に関する事実がありました。それは私がまだ1歳位の頃の事件のようですが・・・。父の実家で母が私をトイレに連れていったときの出来事。

かつて田舎のトイレは母屋から離れたところにあり、もちろん汲み取り式でした。板張りの床に四角い穴が開けられただけのトイレです。母が私を前に抱えてしゃがみこんだ瞬間、母の手が滑り私はその床下の肥溜めに落ちてしまったのです。その直後、私は首だけ出して浮かんでいたそうです。

パニックに陥った母は、自力で私を助けようにも手が届かず、大声で助けを呼んだとか。幸いにして、父の姉の夫も来ていて直ぐ側にいたようで駆けつけてくれ、おじさんは上半身をトイレの穴にツッコミ、私の状況を確認してから両腕を伸ばして私の首を挟むように掴み引きずりあげたそうです。すぐに井戸水で体を洗い、事なきを得ました。しかし、母は大事な長男をトイレに落としたということを恥じて、父には絶対言えないのでとおじさんに「絶対このことは主人に話さないでください!」と哀願したそうです。それ以来ずっとこの件は母とおじさんの秘密となっていたのです。もちろん父は亡くなるまで知らなかった話です。

では、なぜこの事件を私が知っているのか?それは私が高校生の頃、春休みにアルバイトをしていたときのこと。私を助けたおじさんの仕事はペンキ塗り職人でした。数人の若者を抱えて当時は国鉄の鉄橋ペイントを専門にしていました。作業現場が遠いところだと旅館を転々としながら作業を続けるのです。鉄橋は大小様々なものがあり、私がアルバイトしたときは鹿児島県の隼人という町の田んぼの中にある小さな鉄橋をペイントしていました。用水路に掛かった数メートルの小さな鉄橋をいくつも塗り続けました。

そして旅館に泊まった時、夕食後雑談していたところおじさんが突然話し出しました。「もうそろそろ時効だからお前も知っていいだろう!」と先程のトイレ落下事件を詳しく話してくれたのです。そして念押しされました。父は今でも知らない話なので父には絶対話さないでくれと。その約束を私は守り続けました。父が亡くなるまでね。

やがて時が経ち、私と母がこの件に関して話す日が来ました。聞いたところ、母はやはり長男をトイレに落としたことが父に対して申し訳なくて恥ずかしくて絶対に知られたくなかったと。その私を救い上げたおじさんは随分前に亡くなりましたが、近所に住んでいた母はおじさんが亡くなるまでずっと生活の面倒を見ていましたね。秘密の共有者ということですか。そう!母の秘密はこうやって守られ続けたのです。

そして今気づくのです。飴玉事件やトイレ事件に関して、私は当時幼すぎて全く記憶には残っていないのです。当事者から聞いた話で知っただけです。特にトイレ事件は、おじさんが話してくれなかったら母は一生私にも話してくれることはなかったでしょうね。てなことで、火傷事件、飴玉事件、トイレ事件、すべてが私の記憶にあるうちに書き込めておきたかったのですよ。


本日の結論
思い出すたびに書き留めておかないと消えてしまう記憶!私しか知らないのだから!

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