開花的桜雑感
2016年03月22日 桜を見るたびに思うこと。


近所の八重桜はもう満開だ!


「人生の句読点」

今、まさに桜の季節である。今年の関東地方の桜は開花後に寒い日が続くので長持ちしそうだとの情報がある。桜は長持ちしないほうが桜らしいとも感じるがね。一気に開花し、一気に散っていく。なんだろうこの短期勝負型の花に対する愛おしさは。

2005年3月に鬱病のダークサイドへ落ち込んだ私は、投薬治療を続けながら半年もすれば元に戻れると思っていた。だが、それは2006年になっても戻ることはなかった。そして発症からほぼ1年後の2月、日々募る死への願望があった。正しく表現すれば「死」ではなく「消失」であった。自分の存在を消してしまいたいとの願望が日々強くなっていたのだ。

多くの鬱病患者が「死」を選ぶ事実がある。だが、報道される様々な有名人達の鬱病を原因とする「自殺」の本質は「死」を選んだのではないと私は知っている。鬱病経験者の共通認識である、重度の「鬱感覚」は健常者の想像を遥かに超えている。この感覚を持つ自分がこれから先も長らく生き続けることへの否定が「自己消失への願望」だ。あくまでも「死」ではないとの説明は経験したものでないとなかなか理解できない。「自己消失」が出来るのであれば「死」でなくても構わないのだから。しかし、最終的に実現させるためには「死」を選ぶしか無いという現実がある。

私も瞬間的にそれを選択し実行に移しかけた。2006年2月末のことだ。その瞬間はそれが最善手だと思っていた。私に残された精神的自由への道はそれしか無いと信じられた。その思いが瞬間的に起こり、直ぐに行動を起こしたのだ。だが・・・その数秒後、私は妻と娘の顔が浮かべた。「こいつらはどうなるのだ?」そう気づいた瞬間足が止まった。直後に列車は私の前を通り過ぎていった。その2日後、長い休職生活に入った。

そして1か月後、2006年4月頭。私は桜吹雪の中に立っていた。慶応大学の野球グラウンドの周りには多くの桜が植えられている。日々、近所を通ることがあり桜の存在は知っていたのだが、それまでその下に行き眺めることはしたことがなかった。何故かその年、それをやりたくなった。生き延びて眺める満開の桜は、私の感情を揺さぶった。鬱病で感情さえほとんど失われているというのに、桜の淡い色が心に滲みた。涙が流れた。生き残ることの意味を考えた・・・。生き残れたことに喜びを感じた。

それから毎年、桜の季節を待ち焦がれるようになった。桜の開花は「人生の句読点」のような気がする。自分が生き続けていることの確認作業のように桜吹雪の中を毎年歩き続けた。それは「生きている」ことの自己確認のようだった。それは「二度と自己消失へは足を踏み入れない!」という決意でもある。これから先、生きているうちに何度この桜を愛でることが出来るのだろうか?


本日の結論
やがて桜が散り、また来年の桜を想う日々が来る。

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