風呂的望郷談


2016年02月03日 寒い日には望郷が浮かぶ!


井戸ポンプ


「風呂おけを一杯に」

1992年に父は亡くなったので今は会うことは出来ないが、ふと若いころの父親に会いたいと思った。年齢で言えば35歳頃の父だろうか。私が小学校に入った頃の父の年齢である。父はあの当時何を考えていたのだろうか?かなり私個人の意識の問題だが、気になったので書き出してみよう。

私は7年間の鬱病から2012年に脱出し、無事に回復していると思っているのだが・・・。極たまに天気が悪く寒い日には鬱がうっすらと顔を出すことがある。その瞬間に望郷の念が浮かぶのだ。ここ数日続いていたなあ・・・。

父が35歳の頃は、私たちは宮崎県の小林市に住んでいた。鹿児島県との境にある街だ。当時はド田舎だった。父は当時「肋骨カリエス」に罹り大手術を受けていた。さらに赤痢に罹り私と父は一緒の病室に入った記憶もある。一生病との戦いを続けていた父だったが、それでも35歳の若さではまだ体力が有り、自転車一台に家族四人乗って様々な場所へ出掛けたものだ。

私が東京へ出たのは18歳の時だが、その理由には父との確執があった。具体的に父親と何らかの戦いがあったわけではない。父は全くそのことに気づいていなかっただろうが、問題は私の精神状態にあったのだ。幾つかの出来事が重なり、父に対する距離を持ちたいと思い始めたのが高校生の時だった。

さらに、今となっては私の思考が間違っていたと思うしか無いのだが、旧日本軍に対する嫌悪感もその原因のひとつだ。父はあの戦争で出兵した。その件について余り話をすることもなかったが、ほんの少し聞いた話だと台湾まで行ったらしい。戦闘員ではなく通信系の内勤だったようだ。だが、子供の頃に植え付けられた「アジアで酷いことをした日本軍」等の情報は少年時代の感情に影響を与えた。父もそれに加担したのだとの思いがあったのだ。

しかし近年になり「アジアで酷いことをした日本軍」の情報は「GHQの情報操作」が本質であり、中国、韓国の発する言葉は嘘だらけだと知ることになった。アジアの国々を日本軍が欧米の植民地から開放したことで多くの国から感謝されているとの話を知るに至り、近年は父に対し詫たくなった。

残念だが詫びようにも、もう父は存在しない。

さらに望郷の念は母にも及んだ。小林市に住んでいた頃、昭和31年〜昭和35年はまだまだ日本が貧しい時代だった。小林市郊外の小さな賃貸住宅に住んでいたが、その家には風呂がなかった。もちろん水道もない。台所にガスはなく、薪で毎日ごはんを炊いていた。

生活用水は、隣の家に有った井戸からバケツに汲んで母が毎日運んでいた。母が30歳前後の頃だ。風呂は入居後、しばらくは近所の家にもらい風呂していた。ドラム缶風呂だったがね。2年ほどして父が当家にも五右衛門風呂を作った。しかし、その住宅地には水道は引かれていなかった。毎日、風呂を満たすための水を母はバケツで隣の家から運んでいた。背中には幼い弟を背負いながらの水汲み作業だ。若さゆえに母は耐えられたのだろう。

しかし、その水汲みを冷静に想像すると・・・。風呂おけを一杯に出来るほどの水量を、ほぼ毎日両腕にバケツをぶら下げて運び満たすのだ。気が遠くなるほどの作業だ。今それをやれと言われてもなかなか出来ることではないな。昨夜、風呂に入りシャワーを浴びながら、ふと母の水汲みを思い出したのだよ。切なさがこみ上げてきた・・・。

歴史上の出来事に思いを馳せるのは、よくあることだ。むしろ楽しくもある。だが、そこに自分の存在はない。しかし、戻れない自分の幼いころの日に思いを馳せるのは苦しい。そこには自分と父母、弟の姿が浮かぶのだ。もし、可能であればあの日に戻って若き日の父親と話をしてみたい。その思いが強く押し寄せるのだ。さらに金銭的にもサポートしてやりたいとか、将来の危機回避のための助言もしたいとか、不可能な妄想に振り回されてしまう。

このような妄想に縛られ始めると「まずい・・・何か意識を外らさなくては!」と慌てて仕事に集中することになる。うっすらとした鬱はこうやっていつまでも私に絡みついてくるのだろうな・・・。


本日の結論
今日は、天気が良くなってきたので精神状態が安定している!

「独断倉庫」に関しての御意見は「啓示倉庫」へ書き込んで下さいな。



GO TO HOME PAGE