出社的最終日


2009年10月15日 本日で会社を辞めました!


こんなに晴れ渡った気分です!



「ふと私を思い出したら」

本日の朝は6時に目覚めました。窓の外には、雲ひとつない青空が広がっていて、窓を開けると清々しい秋の風がそよいでいました。今日は、私の会社員生活の最終日です。36年前、1973年8月14日に入社した日の出来事は鮮明に記憶しています。

指定された10時に当時南青山にあったTV-CM制作会社へ到着。しかし、その時点で誰も私を迎え入れること無く、デスクの女性の指示で、ロビーのソファーに腰掛けていました。これから業務内容の指導や説明があるのかと思っていましたが・・・。その時突然、社員の男性から声をかけられました。

「君は今日入社したの?これからのスケジュールは?」
「いえ、まだ何も伺っていませんが・・・」
「じゃあ!これから撮影に行くからついて来て!」

と、いきなり車の運転をまかされて、赤坂のカメラ機材屋に行かされました。その後、建築途中の最高裁判所の横を通り、警視庁の前を抜け、浜町方面に移動。着いたところは撮影スタジオでした。スタジオ内に入ると、そこには小さな茶の間のセットが組んでありました。「週刊TVガイド」のテレビコマーシャル撮影現場です。

撮影準備が進み、やがてタレントさんが登場。映画「男はつらいよ」シリーズで「タコ社長」を演じていた「太宰久雄」さんでした。太宰さんの演技は、ただひたすらカメラに向かって笑い続け、最後に「面白い!」とつぶやくだけです。いきなり連れてこられたスタジオでしたので、私は何をしてよいのやら分からず、先輩からの指示も無かったので、一日中スタジオの隅で見学者のようにたたずんでいました。この日から私の長い「テレビコマーシャル制作」の生活が始まったのです。たった12名の小さな会社でした。初任給は4.5万円でした。

それから10か月間は制作進行助手という仕事をしていました。今テレビ業界で言う「AD」のようなものです。そして「制作進行」としてCMをまかされるようになりました。プロデューサーとタッグを組んでコマーシャルを作り上げるのです。収入がある程度安定して来た私は、23歳で早くも結婚しました。

結婚して半年後に、大学の先生をやっていた従兄弟家族がアメリカに留学するというので、その家の留守番をすることになりました。横浜の保土ヶ谷にあったその家はとても小さな家でしたが、私たち夫婦は2年間そこで地味に暮らしました。留守番ですので家賃は全く必要なく、このチャンスを逃すものかと質素な暮らしをしてお金を貯めまくりました。私たち夫婦の最大の目標は「自分の家を持つ」ということでしたから。そして、その家から出て行く直前に江東区東陽町のマンションを購入しました。25歳での快挙でした。1690万円のマンションでした。1年後にマンションが完成して入居しましたが、その際に支払った頭金は800万円。この年齢でよく貯められたものです。

実は結婚した直後、一度会社を辞めようと考えたことがありました。その当時アメリカにあったギター製作の学校に入って、ギター職人になりたいと思ったのです。「会社を辞めたい」と妻に伝えましたところ、妻はあっさり「いいわよ」と答えてくれました。何も抵抗を示さない妻に対して、これは逆にショックでした。私は何という愚かな判断をしていたのだろうと、すぐに反省をして会社に居続けることにしました。

多くのコマーシャルを手がけた後に25歳で「プロデューサー」の名刺をもらいました。ところが、今考えると25歳でプロデューサーは早過ぎました。酒も飲めず、付き合いも下手。おべんちゃらも下手、営業らしきことが全く出来ない私にはなかなかクリア出来ない壁が大きく立ちはだかっていたのです。社会人としての経験も少な過ぎます。

そこでお酒の勉強を始めました。毎日夕食時にビールの小瓶を1本空けることにして半年続けたところ、なんとか飲み屋で相手としばらく付き合えるようにはなりました。ですが、いかんせん若過ぎました。信用がありません。苦渋の低迷期が数年続きました。

1978年に初めて海外ロケに出ました。アメリカのロスアンジェルス。某化粧品メーカーのCM撮影でした。1週間の滞在でしたが、自由時間がほとんどなく、最終日の空港へ向かう道すがら「ギターセンター」に飛び込んで「Gibson LP Custom」を1本購入しました。私の人生で初めて買ったエレキギターです。この1年後、会社の仲間で「The Sizzle」というバンドを結成しました。私はほとんどギターを弾けないのに、リードギターでした。初めて覚えた曲は「ブラック・マジック・ウーマン」耳コピーで必死に覚えました。このGibsonは今も私の宝物です。

そんな中、29歳で子供が生まれました。子供が苦手だった私は、仕事にかこつけて毎日深夜まで会社にいました。

30歳になったとき、ついにそれはやってきました。その当時は気づいていなかったのですが、今から考えれば典型的な「鬱病」の症状が出ていたのです。仕事が上手く行かないことのストレスが、やがて精神を蝕んでいきました。誰にも言えず苦しい日々でした。今だから言えるのですが、手首を切る寸前までいっていました。それほど辛い苦しい日々だったのです。

ところが、3か月ほど過ぎた頃にある仕事で、優秀な広告代理店担当者と仕事をする機会に恵まれました。それも別々の広告代理店で2人と知り合いました。この2人は、私のやりたくないことは要求してきませんでした。酒を飲ませろとか、ゴルフに連れていけとは一度も言いませんでした。この2人と仕事をすると、ひたすら仕事のクオリティを上げることに専念できたのです。私は職人に徹することが出来ました。

ここから私のプロデューサー人生は上手く回り始めました。バブル期に向かって仕事は加速的に増え、予算も潤沢になり自分が仕掛けた通りに周りが動き始めました。そうすると仕事が面白くなります。ほとんど自宅にいる時間がなくなりましたが、ひたすら仕事に専念して走り続けました。

といいつつも、その裏では「バンド活動」を7年間やっていました。バイクのオフロードレースにも参加していましたし、バイクのツーリングや、サバイバルゲームにも熱中していました。平日は仕事三昧、週末は遊び三昧で突き進んでいました。今思えばよく体が持ったものです。


昭和が平成になり。バブル崩壊直前まで大盤振る舞いの広告業界は成長を続けました。ゴルフを覚えたのもこの頃です。不動産バブルのまっただ中にマンションを買い替え、川崎市に引っ越しました。8990万円で購入。37歳の時の出来事でした。11年住んだ最初のマンションは6100万円で売り出した3日後に売れました。驚きの売却価格です。ここで、約3000万円の住宅ローンを抱えてしまいましたが、いずれこのマンションも価格が上がったら売り払ってさらにステップアップしようと甘い夢を見ていました。

ところが・・・その半年後にバブルが崩壊して広告業界は辛い時期を迎えました。不動産バブルも崩壊、マンション価格は暴落、いずれ買い替えるという夢は早くも消えてしまいました。その世の中を横目になんとか泳ぎつつ、コンピュータやインターネットの時代がやってきました。私はそれらの到来よりも数年早くから個人的に研究を始めていました。Macを買いプログラムの入り口を勉強し、仕事につかえないかとあれこれ試行錯誤していました。私が、ニフティーサーブで電子メールを使い始めた頃です。

そして、それらの知識があるということで社内に新しく出来た「マルチメディア部」のプロデューサーに転向。40歳でした。1996年3月、マクロメディア社がShockwave技術を発表したことで、画像データが軽くなりWEBに動画が使いやすくなりました。そこで、私は自分のホームページを開設しました。動画(アニメーション)がメインで、言葉はほとんど書いていませんでした。

そこからはひたすらデジタル系のソフト開発や、WEBがらみの仕事をしていましたが、いかんせんまだ世の中がインターネットについて来れず、広告業界でデジタル系の仕事がほとんど発生しませんでした。「マルチメディア部」は結局、5年間運営したものの売り上げがついてこない状態で解散となりました。

このころ、知人の紹介で相撲部屋のホームページ作成を頼まれました。当時の「若松部屋」、現在の「高砂部屋」です。私個人がボランティアで作成することになりましたが、私が要求したギャラは「いつでも部屋でちゃんこを食べられる権利」でした。親方はそれをすぐに快諾。私はホームページを制作すると同時に、HTMLやページ更新の指導も行って、半年後には部屋で自力運営が出来るようになりました。それ以来、年に数度は友人を連れてちゃんこをごちそうになりに行くようになりました。ちなみにこの頃「朝青龍」はまだ下っ端で「ドルジ」と呼ばれていました。「高砂部屋」のホームページは現在もきちんと運営されていて、ほぼ毎日更新が続いています。

45歳からは会社の管理部門で、いままでの現場の知識をフル活用して管理職をやっていました。そしてこの年に酒を止めました。痛風の発症がきっかけです。ストレス解消にビールを飲み過ぎたせいでしょう。酒を辞めると小銭が貯まるので、1999年にオークションで中古ギターを買いレストアやメンテナンスを始めました。作業が面白くて、次々にギターを購入し続けました。それを譲ってくれと言われることも多くて、キャッチアンドリリースを続けました。

その後、管理本部長として、業務部、統括部を管理しつつ、同時にデジタルスーパーバイザーという名刺まで持っていました。コンピュータ2000年問題での対策を余儀なくされていた時期です。私のドメインネームに「tanabe.tv」を採用したのがこの頃です。管理部門での3年間が過ぎ、ようやく動きにも馴染んで、これから本格的に取り組めると思っていたやさきの2001年3月、突然「子会社に出向してくれ!」と社長に言い渡されました。寝耳に水の命令で驚きました。


2001年の春に、CGの制作やコマーシャルの映像を編集する会社へ役員として出向しました。大きな負債を抱えた会社を「建て直してくれ!」との指令でした。9.11事件が起こったのはこの年です。その後、私は出向から転籍し常務取締役となり、本社の非常勤取締役も兼任していました。これが辛い立場でした。利害関係が相反する立場を同時にやらなければならないのです。この頃、役員になったことで退職金が支払われました。この退職金全額をつぎ込んで、残っていた住宅ローンを完済し借金ゼロ生活に戻れました。住宅ローンの重荷が無くなると、精神的にかなり軽く感じられ、嬉しい日々となりました。

やがて会社を3年かけて、どん底状態からなんとか黒字へ転換出来る状況へと好転させました。そして4年目に安定運営が始まると思ったやさきに、私の鬱が頭をもたげ始めました。女子社員が結婚のために辞めたいと申し出たのです。その後任のスタッフを捜さなければと思っていたところ、それを日々考えているうちに眠れない状態になりました。ほぼ朝まで眠れず悶々とした夜が続いたのです。

2004年3月1日。今もはっきり覚えている日付です。この日から私は眠れなくなりました。さらに4月になって、精神状態は急激に悪化しました。そして、とどめとなったのはラスベガスへの出張でした。私は当時の精神状態では長旅は無理だと判断したので出張を断ったのですが、なんとしても行けとの社長命令でした。結果としてこの出張が最後のだめ押しをしたようです。帰国後、全く身動きが取れなくなり精神科に飛び込んだところ、真性鬱病と診断されました。


代表的抗鬱剤

1年間は抗鬱剤を飲みつつ自分をダマしダマし働き続けていましたが、抗鬱剤の副作用と自殺願望が襲い続ける日々に憔悴し切ってしまいました。線路に飛び込もうと考え、自殺寸前まで追い込まれたことも数回ありました。死が私の隣に寄り添っていた時期でした。やがてその状況を見かねた会社は「休職した方が良い」と判断。2006年3月から休職しました。頭も体も動かない日々に、これで私の人生は終わってしまった・・・と思っていました。明日への希望が全く消えさっていました。

そんな休職生活が始まって2か月後のこと、珍しく外へ出て散歩の途中にふと「LOTO6」を買ってみました。同じ番号を2口です。何故そうしたのか理由は覚えていませんが。1週間後、当選番号の発表を確認して驚きました。6つの数字のうち、5つが合致していたのです。つまり3等当選です。1口92万円でしたので、2口で184万円の当選金を受け取りました。しかし・・・鬱病の真っ最中でしたので、興奮することも無く、何一つ購買意欲は沸き上がらず、全額すぐに銀行口座に振り込んでしまいました。

休職して半年後かつての同僚から連絡があり「新しい会社を立ち上げたのだけれど、管理関係のベテラン人材が足りないので、復帰したら手伝ってくれないか」と誘われたのです。といっても、同じグループの子会社なのですが。もう、元の会社に戻る気はなかったので「もし動けるようになったらお世話になります」と伝えて再び療養の日々を過ごしました。いつ動けるようになるのかはまったく予測できていませんでしたが。

やがて2007年春。体が動かせるようになり、少し行動したくなってきました。そこで4月から誘われた会社に就職しました。1年契約で、週に3日の出社という条件で了解してもらいました。毎日出社は私にはどうしても出来ないと思われたのです。ところが・・・働きだすにはまだ早過ぎたようです。勤務中に抗鬱剤の副作用で激しい眠気や、ボーッとしてしまうことが頻発したのです。判断力もまだまだ鈍っていましたし、何しろ人と会話するのがとても苦痛で電話もとれませんでした。

他の社員にしてみれば「なんだこのボーッとしたおっさんは」と思っていたに違いありません。苦しい日々が過ぎました。途中で何度も辞めたいと思っていたのですが、なかなかそれも出来ずこれまた苦しんでいたのです。幸いにして、週に4日は自由時間がありましたので、その時間を「鬱病のリハビリ」と称して小型アンプを作ったりエフェクターを製作したりと頭の体操に当てていました。


ここから先は皆さんもご存知の通り、2007年10月23日に完成したギターエフェクターの「禅駆動」が思わぬ展開でヒットし、世界中からオーダーが来ることになりました。辛い会社員生活の裏側で、エフェクター製作への喜びが助けとなっていました。ユーザー達の賞賛が海外からも届くようになり、やがてそれは鬱病から脱出するための起爆剤となったのです。

エフェクターを製造すると、サウンドチェックは欠かせません。サウンドチェックを繰り返しているうちに音量が上がり続け、ついにマンションの住人から「うるさい!」とのクレームが何度か届くようになりました。そこで、緊急に対策が必要となりました。その時思い出したのが、2年前に当選した「LOTO6の当選金」の存在でした。私の部屋を防音工事する見積もりを業者に出してもらったら180万円でした。手つかずの当選金は184万円。なんとまあこの工事のために当選したような金額でした。すぐに発注し、2008年3月末から2週間かかって防音室は完成。つまり、私が支出した防音室設置原価は「LOTO6購入代金2000円」だけだったという結果となりました。

2008年10月に突然勃発したリーマンショックは、広告業界全体を厳しい状況に追い込んできました。すぐに私の勤務している会社にも色濃く影響を及ぼしてきました。2009年になりさらにその影響は拡大を始めました。そこで私は判断しました。会社の経費負担を少しでも軽くするために自主的リストラをしようと。そして、そのタイミングをずっと探していました。

2009年10月1日。社長から赤字脱出の策を相談されていた時に、私は今がそのタイミングだと考え「私を解雇しませんか?遠慮はいりませんよ!」と口走ったのです。その場で、私の解雇は決定しました。その日すぐに辞めても良かったのですが、残務処理があるので、本日10月15日までの勤務としました。

うれしいことに、会社を辞めると決意した日から半月で、私の「鬱病」はすっかり抜けてしまいました。結局私は組織が発するストレスを受け止めすぎて、私自身の精神状態を攻撃していたのですね。私が目指していたのは実は「会社を辞めること」が目的ではなく「鬱からの完全脱出」でした。それが実現したのですからとても嬉しい本日なのですよ。

今思えば、1971年に故郷を出て上京して来た時には想像もできなかった面白い人生でした。そして38年後、予想もつかない状況で仕事を辞める結果となりました。定年まで働き続けると思っていただけに自分でも良く決断したなと驚くばかりです。これから先、いつまで皆様の記憶にとどまっていられるか分かりませんが、ふと私を思い出したら気軽にご連絡下さいませ。忘れ去られるのは寂しいですからね。

 

本日の結論
以上、本日18時30分をもちまして、私の会社員生活は終了いたしました。報告完了!

「独断倉庫」に関しての御意見は「啓示倉庫」へ書き込んで下さいな。



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