回想的弐年間

2007年03月19日 記憶の限り書き出してみると・・・!

例えれば、発症当時はこんな風景
 
そして、今はこんな風景

「モチベーションが無くなり絶望する病気」

鬱に突入してから丸2年が過ぎた。休職して1年以上が経った。鬱になって初めて「自分の精神状態と付き合いつつ共に生きる」感覚を味わった。そして、常に自分の精神状態を観察し続けるクセも身に付いた。健康であれば、自分の精神状態を疑う事は無い。鬱は病気である。胃が病気になれば、胃の調子を気遣う。心臓が悪ければ心臓を観察し続ける。それと同じ事だ。精神状態を常に観察し続け生活上の対処をしなければならないのだ。

鬱の2年間、私はどのような精神生活をしていたのだろうか?ほぼ回復して来た今となって、自分でも確認しておきたい事である。記憶を固定する意味でもこの2年間の推移を思い出しながら書き留めてみよう。

ちなみに、本日の内容は「鬱の症状」に特化した内容である。鬱に興味が無い方にはつまらない内容だと思うのであらかじめ申し上げておく。長文になるが鬱の実態はこうなのかと知っていただければ幸いである。ただ、鬱と言ってもその症状は千差万別だろう。あくまでもここに記したのは私の場合である。

2005年03月1日〜 突然気分が堕ち込み、不安で暗く悲しい気分が一日中つきまとい始めた。食欲が無くなり、夜眠れなくなった。朝まで眠れない事も多々あった。日々その症状は深く重くなって行った。当然、痩せ始めたが1か月もすれば回復するだろうと甘く考えていた。まだ鬱になったとの意識は無かったが、月末になりそうとうひどくなっていると認識し始めていた。
2005年04月1日〜 そろそろ自分の精神状態は「鬱」ではないかと疑い始めた。WEB上の鬱情報を読みあさった。自分が鬱判定の基準にほとんど当てはまると知った。日々集中力がなくなり、机についているのが辛くなっていた。仕事場が苦痛の場所となった。毎日のように勤務中に悲しみが襲って来た。何も起っていないのに涙が浮かんで来る。生きているのが苦しかった。消失願望を持つようになった。

そんな時、業務命令でラスベガス出張を命じられた。若い社員を行かせるように懇願したが聞き入れてもらえなかった。4月中旬ラスベガスへ出張。精神状態が不安定なままのホテル暮らしは堪え難いものがあった。時差ぼけと鬱の症状で疲労困憊して帰国。

すぐにゴールデンウイークに突入。しかし!精神状態はどん底となり身動きが取れなかった。休み中1歩も外へ出る事は無く、一日中襲って来る精神的苦痛に耐えながら眠り続ける1週間だった。この2か月で体重は7kg落ちていた。
2005年05月6日〜

GW開けの出社日、起きたときから最悪の精神状態だった。不安感が全身に絡み付いていた。そして、駅に向かう車の中で精神的限界に陥った。運転中の妻に「病院に行ってくれ!」と頼んだ。だが、向かった病院の心療内科は予約が必要で受け付けてくれなかった。すぐさま自宅に戻り、WEBで検索し病院に電話をしまくった。必死だった。30分後ようやく高津の大学病院精神科が当日でも受け付けてくれると判明し急行した。

病院では分厚い問診用紙に書き込み、現在の精神状態の度合いを判定する資料を作った。その設問の中には「死にたいか?」あるいは「死にたいと思った事はあるか?」が出て来た。もちろんイエスだった・・・。その後、30分の問診があり、主治医は「間違いなく鬱病です!」と言い切った。この事で、私の精神状態は逆に楽になった。自分が鬱病であるとしっかり認識する事は重要な回復要素である。薬の処方箋をもらい、さっそく投薬を始めた。

「とにかく不眠で苦しい!まずは眠らせて欲しい」と医師に頼んでいたので睡眠導入剤が処方されていた。その日からぐっすりと眠れるようになった。少し体が楽になる。だが、抗鬱剤には副作用がある。胸焼けと便秘にしばらくの間悩まされ続けた。

2005年06月1日〜 抗鬱剤にはもう一つ「眠気」が副作用としてあった。初期の投薬では量も多かったので、仕事中に眠りたくなる事が頻繁に起っていた。特に昼食後はとてつもなく眠くなり気を失うように倒れ込みグッスリ寝込んだ。日々、人の目に触れず眠るれる場所を探してうろつくようになった。この睡魔との戦いは、その後も休職するまでずっと続く事になる。

このころ集中力が低下していると感じる事件が続発した。車を運転していると回りが意識できないのだ。車幅感覚が分からなくなり、立て続けに何度か接触事故を起こした。悲しいまでに運転できなくなっている自分を感じた。さらに駐車場に入れる際、かなり下手になっているのを妻と娘に指摘された。これも距離感が掴めなくなっているのが原因だろう。医師からは車の運転をしないようにと指示された。

本も全く読めなくなっていた。本を開いても、そこに並んでいる文字列に意味を見いだす事が出来なくなっていたのだ。仕事上の書類を読むのがとても苦痛になっていた。

ジャズギターのレッスンに通っていたが、自宅で覚えたはずのフレーズが教室でどうしても思い出せず愕然とした。記憶力の障害が出ている感じだった。自信が持てなくなった。
2005年08月1日〜 社長に鬱の症状を話し、少し長い夏休みをもらう事にした。1週間休んでみた。毎日寝ているだけの1週間はあっという間に過ぎ去り、次に出社した時にはまたもとの精神状態でしかなかった。短期間の休暇では鬱病には意味が無いと知った。

投薬は続いていたが、病状は一進一退の日々が続き、回復の兆しは見えなかった。不安感が蹂躙し、人生のすべてが遠い記憶のように感じられていた。ただ生きているだけの日々。相変わらず、悲しみと苦しみに蹂躙されていた。若い頃の父に会いたいと、不可能な願望が頭の中を占領していた。そんな時は妻や母に電話して声を聴いた。少し落ち着いた。

苦しみや悲しみの感情は、自分の過去を振り返り人々にかけた迷惑を後悔するところから発生していると感じた。自分が何もできない役立たずの能無しであると思い込み、ただただ情け無く消え入りたいと感じているのだった。この自己否定の感覚は鬱の症状の大きなものである。

相変わらず眠気との戦いは続いていた。仕事場で眠りに落ちる瞬間が頻繁にあった。起きている事が、仕事場での重要なファクターになっていた。

11月になりついにジャズギター教室に通うのを停止した。鬱の症状によりギターを触る事が苦痛になっていたし、楽譜を観て弾くにはとてつもない集中力が必要だったが、とてもそんな事が出来る状態ではなかった。記憶力の低下が著しかった。
2005年12月中〜 再度社長と話しをし、冬休みに入る前に2週間の休暇を取った。今度こそ何とか回復したいとの期待は大きかった。だが、その期待は裏切られた。相変わらず気力体力が無く、何一つ希望は見えなかった。苦しさと悲しさだけが毎日襲っていた。強い退社願望や自殺願望が押し寄せて来た。

実は、このときの社長との話しあいが鬱の症状を悪化させる原因の一つになっていたと後で気付いた。鬱を理解していない経営者の発言は著しく症状を悪化させる原因にもなるのだ。

投薬治療を続けていると診察料、薬代と出費がかさむ。結構辛い出費となっていた。だがこの頃、鬱病患者には医療費特別補助があり申請して受理されれば、神奈川県では医療費が1/10になる事を知った。すぐに申請し受理された。来年から2年間適用されるようになる。これは、鬱病患者は治療が長引くために金欠により途中で治療を中断しない為の政治的配慮である。ちなみに、東京都では無料となる。
2006年01月1日〜

母が心配し、年末に上京して来た。冬休みを一緒に過ごした。父も重い鬱病だった為に、母は鬱病患者への対処が慣れているようだった。鬱病は遺伝性もあると言う。母は、私が鬱にならない事を昔から願っていたと語った。

冬休み中も相変わらず悲しみが続いていた。コタツの中にうずくまり眼をつぶり続ける事がほとんどの日々。本当に明るい明日は来るのか?希望はほとんど消えていた。

今月から社長が交代した。鬱病であるとの報告をしておいた。

1月中旬、またもや出社するだけで疲れ切ってしまい、体調がかなり悪くなったため休暇を取った。そろそろ対策を真剣に考えねばならない状態だとは思うのだが、自発的に何かをやろうとの気力は全く無かった。判断力が大幅に低下していた。惰性だけで生きていた。

2006年02月1日〜 ただ出社しているだけの日々。何も生産性を感じない。モチベーションが著しく消えていた。出勤電車の中ではひたすら寝ているだけ。駅のホームに立つと、線路に飛び込みたい衝動に駆られた。これで楽になれるのならと、その誘惑は強かった。だが、死ぬことへのモチベーションさえ消えていたので、飛び込む事はできなかった。

この頃になると、社内でも私の行動はおかしく見えていたのだろう。だれかが社長へ報告したと思っているのだが・・・。社長も私が昼休みに眠りこけている姿を目撃していたと聞いた。
2006年03月4日 ついに社長から呼ばれ「一年間の休職をしたらどうだ」と勧められた。生活は保険の傷病手当支給で何とかなると分かったので、勧められる通り2日後から休職する事にした。とりあえず3月中は休暇扱いとし、4月1日からの1年間を休職とした。一気に脱力し、開放感があった。

私は2社の役員をやっていたので、1社はその日に退任届けを書いた。
2006年03月6日〜 この日からひたすら自宅で眠りこける生活が始まった。健康な状態であれば、これだけ休めるのだから、何か今までやりたかった事をやりそうな気がするのだが、全く何も出来ない精神状態。眠るだけが生活のすべてだった。明日の事を考えなくてよい生活は精神的な苦痛から少しだけ解放してくれた。だが、鬱の本質からの解放ではない。相変わらず悲しみは続いていた。
2006年04月1日〜 日々、テレビの前に座り、横になり、うたた寝を続けていた。この頃になると食欲は出ていたので、体重は徐々に戻って来ていた。が、精神状態は何一つ変わっていなかった。相変わらず悲しい日々が続いていた。モチベーションは消え去ったままだった。

某ギター製作者から「時間があるんだからこの機会にギターを作ってみないか?うちにある機材は全部使ってかまわないから」と誘いを受けた。ありがたい申し出でではあるが、モチベーションが消え果てている現状ではとてもやれる事ではなかった。

医療費が1/10になる制度を申請していたのだが、今月からシステムの変更により1/5へと増えてしまった。それでもかなり助かる医療制度だ。
2006年04月末〜
      5月頭
宮崎の実家へ一人で帰省した。2週間のんびりと過ごそうとしていたのだが、母は、散歩した方が良いと毎日1時間ほどの散歩を付き合わされた。天候が良いので気分良くやる事が出来た。友人も来て自転車を貸してくれたり、散歩に連れ出してくれたりとありがたい対応であった。歩く体力とモチベーションが必要と認識し始めた。

毎日の生活が数枚のベールに包まれたような感覚の中で営まれていた。現実感が薄い。自分の回りの出来事が他人事に感じられる日々。
2006年05月下旬 たまたま買ってみたLOTO6が3等に当選した。184万円の臨時収入となった。収入が無いときのこの金額はありがたかった。だが、まだモチベーションは蘇っていない為に何かに使う気力は無かったし、当選した現実感も薄かった。すべて貯金した。

この当選によって精神的な変化は別に感じなかった。淡々とした毎日。興奮も感じられなかった。これが鬱の怖いところだ。喜びの感情が極端に消えてしまうのだ。
2006年06月1日〜 相変わらず眠い日は続いていた。ギターに触る事も無く、本を読む事も無く、ただひたすらテレビに見入っていた。だが、番組の内容に感じるものは何も無かった。通り過ぎるだけの番組。感情は起伏を失ったままだった。頭の中は冷たく凍ったままだった。

6月の頭、突然前触れも無く「鬱の好転」が 現れた。
窓から外の景色をぼんやり観ていたら、急に足下から暖かいお湯に満たされて行く感覚が始まった。ジワジワと上に上がって行き、体が暖かくなるのを感じた。さらに体の回りにあった見えない壁がガラガラと崩れ去り、天の雲間から明るい日差しが差して来たのだ。現実に起っていることではない。単なる感覚の問題なのだが、それが嬉しく、心地よい空間に満たされて行くのを感じたのだった。頭の中が温かなお湯に満たされている感じだった。その間たったの1分程度の時間だったが、この日から急激に悲しみが消えて行った。消滅願望も消えて行った。


とはいえ、まだ鬱状態である事に変わりはなかった。精神的に軽くなり始めただけだ。今までの苦しみが大きかった分、この変化がとても大きいものに感じられたのだ。このやや安定した状態がしばらく続く事になる。大きな堕ち込みはあまり感じなくなった。

7月末に、病気から復活したら来てくれないかと某社社長から誘いがあったが、この時点ではまだすべての出来事に現実感が無く聞き流していた。
2006年09月某日〜 娘から旅行のプレゼントがあり、妻と二人でグァム旅行へ出かけた。出発前はこの間、精神状態が持つだろうかと心配していたが、初日に眠気が少し襲って来ただけで、後は楽しむ事が出来た。しかし、なんとなく頭にベールを一枚まとったような感覚は抜けなかった。現実感がちょっとだけ遠い感じはまだ抜けない。

相変わらず眠い日は多い。朝ご飯が終わるといつのまにか昼まで眠る生活が続いていた。朝の抗鬱剤投薬の影響なのだろう。
2006年11月下旬〜 二度目の鬱の好転がやってきた!
その日もまた突然感覚が一段階鋭敏になるのを感じた。頭にまとっていた一枚のベールが取り払われた感じ。目の前の風景に明るさが増し、現実が現実としてビビッドに感じられるようになった。生活時間が体にフィットして動いている感覚が蘇って来た。


具体性は無いのだが、少し何かをしたいとモチベーションが沸き上がって来た。
2006年12月1日〜 通販の冷凍海鮮食料品を注文してみた。何となく楽しくなり、次々に注文してみた。今年もまた母が上京するというので、正月用にもカニを大量注文。何となく楽しい気分の日が時々起るようになった。

下旬になり、ちょっとしたことで堕ち込み3日間ほど動けなかったが、それを過ぎたら一気に回復。その後は問題ない。
2007年01月10日 この日、三度目の劇的な鬱の好転が現れた!
急に気分が爽快になり、幸福感に満たされた。読書欲が持ち上がり、集中して読み始めた。さらに毎日1時間以上散歩を続ける事が出来始めた。読書欲はさらにふくれあがり、一日10時間も集中して読むようになった。しかも疲れを感じないのだ。モチベーションが沸き上がるのを感じた。

頭の中を涼しい風が吹き抜けるような感覚があり、スッキリしている。今までの重苦しい感覚はすっかり消え去った。

娘から「いままで腐った魚の眼をしてたけど、今日は新鮮な魚の眼をしている!」と客観的な感想を聞いた。自分自身でもそう感じていた。爽やかで気持ちよい日々が始まった。
2007年02月1日〜 ギターを触る日が増えて来た。楽しいと感じられるようになって来た。アコースティクギターをポロポロと爪弾きしながらテレビを眺める日が多くなった。ずっと放置していた象牙サドルの製作もやってみた。

さらに物欲が湧いて来た。健康になって来ている証拠だろう。やたらにオークションに入札し始めた。アメリカの楽器屋に通販でギターアンプも注文してみた。相変わらず読書は進んでいた。読む事が楽しくてしょうがない。

そろそろ復職に向けた対応を考えねばならなくなった。そんなころ、昨年夏に話しがあった某社社長から再度誘いの連絡があった。4月から1年間は非常勤でのんびりと働いてみないかとの誘い。当方の鬱の事情を知った上での誘いであるのはありがたかった。月末に面談しに行った。

元の会社に戻るのか?新しい会社に転職するのか?
元の会社には鬱の原因となった要素がまだ残っていると考える方が自然である。もう二度と鬱の世界には戻りたくない。可能性が少しでもあるのであれば避けるべきだと判断し、転職を決意した。

オークションで手に入れたビデオカメラがとてつもなく役立たずだったが、全く堕ち込む事なく笑っていられた。すぐにオークションで転売してしまった。この事実からも精神状態が復活しているのを感じた。マイナス要因を笑えるようになると私本来の状態に戻って来たと確信できるのだ。
2007年03月1日〜 転職に関して諸処の問題点を処理し、上旬には転職の結論を出した。

そして、今日はこのように過去を思い出しつつ長文を書いていられるようになった。生きている事が嬉しいと感じられる日々は貴重なものである。鬱の日々を経験してみて、新たな発見もあった。自分で自分の精神状態を見つめることは、健康な時には出来ない作業である。

精神世界が持つ不思議な移ろいを経験できた事は貴重な体験だ。鬱真っ最中の時には決して信じられない事なのだが、鬱は完治できる病気なのだ。それを実体験しただけでも大きな収穫である。

この休職中に、私と世間との唯一の接点はインターネットだった。日々のメールや掲示板の書き込みが、私の救いであった事も事実である。そこには、鬱仲間も多い。彼らもいつの日か笑って過ごせる日が来ると信じている。すでに、私以外にももう一人が昨年末に長年の鬱生活から脱却し、無事に社長業へ復帰されているのだ。

鬱病は一言で言えば「モチベーションが無くなり絶望する病気」である。何も自発的にできなくなるのだ。気のせいだから頑張れとか、やればできると言われても出来なくなる病気である。出来なくなるだけではなく、そう言われる事で何も出来ない自分に絶望しさらに症状が重くなってしまうのだ。鬱は脳という内蔵の分泌物不足による物理的病気である。決して気の迷いではない。

鬱から回復するのに必要なのは薬と長い休息の時間である。励ましの言葉だけではなにも解決しない。鬱を知った者は言葉の恐ろしさを知る。一つ一つの励ましの言葉や非難の言葉が、鬱病患者を著しく傷つける可能性がある事を知っている。

極論を書けば、世の経営者はみんな一度は鬱を経験した方が良いと思う。鬱の現実を知り、それによっていち早く多くの社員が鬱の苦しみから抜け出す最善手を見つけることが出来るようになると思うのだが・・・。やっぱり暴論だったね!



本日の結論
鬱かな?と感じたら、すぐに鬱経験者の声を真摯に聞いてみよう!

------------------------------

「独断倉庫」に関しての御意見は「啓示倉庫」へ書き込んで下さいな。


GO TO HOME PAGE